翁と扇

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翁は、おじいさんのことですよね。おばあちゃんのことは、「嫗」。嫗と書いて、「おうな」と訓むんだそうですが。
翁は便利な言葉で、尊敬語と謙譲語とが背中合わせになっています。もし相手に対して使いますと、尊敬語に。たとえば「芭蕉翁」と言いますと、尊敬語。あるいは出石翁といったなら、へりくだった表現になるんだそうです。
そんなこともあってか、明治期まではよく「翁」の言葉が用いられたという。これも一例ですが、「翁飴」。

「何だい、有りますものは。粗粉落雁に翁飴、松風が少々、拾聚ものだな。」

明治二十九年に、尾崎紅葉が発表した『多情多恨』の一節。客が来たので、何か出さないかと、主人が言っている場面なんですね。
ここでの「松風」は、干菓子のひとつ。それはともかく、明治二十年代に、「翁飴」があったのは、まず間違いないでしょう。
江戸時代には、「翁蕎麦」があったという。江戸、深川、熊井町に。これは、翁屋源右衛門の店で、かなり有名な蕎麦屋であったそうです。
あるいはまた、「翁煎餅」。日本橋、「照降町」に「翁屋」という菓子屋があって、ここで売り出した煎餅。「照降町」は、今の人形町あたりのこと。
鯛の料理にも、「翁焼」。白味噌を味醂でのばして。ここに鯛の切り身を漬けおいて。やがて串に刺して、焼く。焼く前に、白味噌のたれも添えて。焼いて表面が白くなるので、翁の白髭を想わせるので、「翁焼」。

「………藍氣鼠の半襟、白茶地に翁格子の博多の丸帶……………………。」

明治四十年に、泉 鏡花が発表した『婦系圖』の一節に、そのような文章が出てきます。
「藍氣鼠」は、英語式に申しますと、「ブルーイッシュ・グレイ」でしょうか。わずかにブルーを帯びたグレイのこと。
「翁格子」は、二重格子。私たちがよく言う「タタソール・チェック」にも似ています。大小の格子をひとつに重ねた格子のことです。
そんな中のひとつに、「翁扇」があります。どうして「翁扇」なのか。能で、「翁」を演じる時に持つ中啓なので、「翁扇」。
「中啓」と書いて、「ちゅうけい」と訓みます。その意味は「中が啓いた扇」。扇の先端が、畳んでなお軽く浮いた状態を保つ扇のことなのです。
能はともかく、扇は携帯もできる装飾品であります。暑い時には、風を送ることも。その意味では実用品でもありましょう。小型扇風機。
しかし送風器とは言いながら、そこに限りない装飾を施すのも、日本人の美学なのでしょう。
尾形光琳は、『仕上図扇面』と名づけられた完全な扇を作っています。今は、「東京国立博物館」の所蔵。
これは宗達ふうの筆づかいでもあって、多くの貴族が遊び戯れている様子が金地の上に描かれています。ただ扇面のみならず、「骨」を含めた完成品なのです。
これほど豪奢な絵画を、機能を借りた装身具に描く。扇ひとつ考えても、日本人の美意識には、果てというものがなかったようです。
どなたか現代に通じる完璧な扇を作って頂けませんでしょうか。

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