アトリエとアンペルメアブル

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アトリエは、画室のことですよね。
画家はふつうアトリエで、絵を描くことになっています。アトリエなら自分で思う位置にキャンバスを立てられるからでしょう。採光の具合もある程度思うようになるに違いありません。
もちろん、「外光派」ということもあるでしょう。外に出て、明るい光の中で描くのが、お好き。たとえば、ゴッホなどは外光派のひとりだったのではないでしょうか。
一方、フジタはアトリエ派だったと言えるでしょう。多く女や猫を描いたわけですから、アトリエの方が便利だったものと思われます。
藤田嗣治は、大正二年に巴里に渡って。モンパルナスに自宅兼アトリエを構えています。
1922年に藤田嗣治のアトリエを訪ねたのが、薩摩治郎八。日本人としてはわりあいと早い、フジタへのアトリエ訪問だったでしょう。

「私が藤田と知りあったのは、一九二二年だった。藤田のドランブル街のアトリエを訪ねて行った。アトリエといってもガレージで向いあいが台所になっていた。英国スタイルの私を見て、彼は心よく迎えたくれた。」

薩摩治郎八の随筆、『華やかなるモンパルナスの彼』に、そのように書いてあります。
文中の「彼」が藤田嗣治であるのは、いうまでもないでしょう。
また、「英国スタイルの私」とは、薩摩治郎八は倫敦から巴里に移ったばかりだったので。
藤田嗣治、三十六歳。薩摩治郎八、二十一歳の時のことであります。
藤田嗣治はキャンバスから自分で作るほどで、その過程だけはあまり人には見せようとはしなかったという。
自分のアトリエに人を招くことをしなかった画家に、ユトリロがいます。が、ほとんど唯一の例外は、フジタ。フジタはユトリロのアトリエに入ったことがあるそうです。

「彼の画室は真白な壁の部屋だ。大理石の黒いストーブがあった。何の飾りというものもなく、学校で使う様な画架の上にトアールを敷き、側らに絵葉書を置き、構図を見ながら描いていた。」

藤田嗣治著『巴里の横顔』には、そのように書いています。
藤田嗣治はまた、『春の女』という随筆の中で、こんなことも書いているのですが。

「ベレーの帽子に、アンペリメヤーブルの外套を無造作に着こんだ、短靴下の金髪の娘が、この辺には珍しい自転車で乗り込んで来た。」

この「娘」は、伯林から巴里まで、自転車で来たのであるらしい。フジタは、「伯林」と書いています。
「娘」は何日も何日もかけて、野宿しながらやっと巴里に着いたのでした。モンパルナスの画家たちはアトリエに「娘」を泊らせ、二十歳の「娘」をモデルに絵を描いたという。
フジタの「アンペリメヤーブル」は、レイン・コートのことです。
「アンペリメアブル」 imp erméabl e 。もともとは、「防水」の意味。フランスではふつう、「アンペリメアブル」と言います。時としては、「アンペリ」だけでも通じるんだとか。
どなたかフランスふうのアペルメアブルを仕立てて頂けませんでしょうか。

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