靴の下の心理学者
ここでのヒールは、「靴の踵」のこと。人間の足の踵もまた「ヒール」である。というよりも足の踵から、靴の踵をヒールと呼ぶようになったのだろう。
「ヒール」の意味は広い。女性用のハイヒールも「ヒール」と略すことがある。ハイヒールについての名言がひとつある。
「私は誰がハイヒールを発明したのか、知らない。でも世の女性たちは皆、「彼」に感謝してるわ。」
マリリン・モンローの名科白である。マリリン・モンローがハイヒールの片方だけ少し短くして、モンロー・ウォークを発明したのは、誰もが知っている。
ヒールは、英語。フランス語では「タロン」talon。このタロンもまた、人の踵であり、靴の踵である。アメリカで「タロン」Talon といえば、ファスナーを指すことがある。言葉は、面白い。
マリリン・モンローがハイヒールの発明者を知らないように、紳士靴のヒールの発明者も分かってはいない。
ただ、今日のヒールは十二世紀のペルシャにはじまったと、考えられている。つまり人類の歴史とともに、サンダルやシューズやブーツは数々あった。が、十一世紀以前にはヒールは存在しなかったのである。
ではなぜ、十二世紀のペルシャでヒールが生まれたのか。それは乗馬用の靴に付けられたヒールが最初だったという。馬に乗ることは、鞍に跨ることであり、鞍に跨ることは、鐙(あぶみ)を使うことである。鐙に靴を固定する時、ヒールがあったほうがフィットする。それでヒールが発明されたのであるという。
つまりそもそものヒールは鐙への滑り止めとして誕生したのである。
ペルシャに生まれたヒールがトルコへと伝えられるのは、1350年頃のこと。そしてトルコから、ハンガリーへ。ハンガリーから、ヨーロッパへ。少なくとも1605年にはフランスに伝えられていたという。
1701年に描かれたルイ十四世の肖像画には、はっきりとヒールがあらわれている。それはヤサンテ・リゴーの絵筆になるもので、今はルーヴル美術館所蔵となっている。ルイ十四世は百合の花を刺繍したローブに身を包んでの盛装。胸元には白いレエスのクラヴァット、手には長く細いステッキを持っている。
フランス王の足は白絹のストッキング、そして白い靴。靴の甲には赤いリボン、そしてヒールは赤い革になっている。1701年のフランスにヒールがあったことは間違いがない。「朕は国家なり」の言葉は、赤いヒールから発せられたものなのか。それはともかくルイ十四世の肖像画に見る赤い踵はかなり高い。まさか王にナポレオン・コンプレックスがあったわけでもあるまいが。
ヒールの減り方である程度、その人の歩き方を推し量ることはできる。正しい歩き方なら、左右もヒールが均等に摩滅するからだ。あるいはまた、どんなヒールを選ぶのかによって、その人物の深層心理が窺えたりもする。自分で背が高いと思っている女の人がフラット・ヒールを好むように。
英国王、チャールズ一世( 1633~1649年在位 ) の靴は特別製であったという。以前、足を傷めたことがあって、靴の内側に薄い銅板を配することで、歩きやすくなっていたらしい。このチャールズ一世の特別製の靴も、おそらくはヒール付きであったものと思われる。その時代、英国でのヒールの高さは、約一インチ前後であった。単純にヒールの高さだけを較べるなら、ルイ十四世のほうが優っていたことになる。
「今日から私は自分の靴の甲に、バックルを付けることにした。」
1660年1月22日。サミュエル・ピープスは『日記』にそう書いてある。なぜ、バックルのことをわざわざ書いたのか。おそらくは、「ロゼッタ」 rossette からバックルに替えたと言いたかったのだろう。それ以前には、男も女も靴の甲に「薔薇飾り」をあしらうことがあった。それではあまりに華美だというので、バックルに替えたのだ。このサミュエル・ピープスの靴ももちろん、ヒール付きであったに違いない。
サミュエル・ピープスのバックル・シューズの約三百年後。1963年のロンドンで、ザ・ビートルズの面々が揃って、チェルシー・ブーツを履いた。これが今日のチェルシー・ブーツの発端である。
チェルシー・ブーツは当時の衣裳である、細いテイパード・パンツへの必然であった。そしてチェルシー・ブーツの必然から、そこにはキューバン・ヒールが付けられていたのである。