カフェとガン

カフェは、珈琲を飲むところですよね。cafe と書いて「カフェ」と訓みます。
もともとカフェは「珈琲」のこと。それで珈琲を飲む場所のことも「カフェ」と呼ぶようになったのでしょう。
今やカフェ花盛りの印象があります。どこに行ってもカフェの探せない所はありませんからね。
日本語は面白いもので、今のカフェの前に、「カフェエ」がありました。大正から昭和のはじめにかけてのことです。
「カフェエ」はカフェに似て非なるもの。むしろ今のキャバレエに近い存在だったのではないでしょうか。とにかく、白いエプロンをかけたお姉さんが席まで酒を運んでくれたんだそうですから。
珈琲を飲むにはふさわしくない店、それが昔の「カフェエ」だったのでしょう。

「學校の向ひなる「カッフエエ、ミネルワ」といふ店に入りて、珈琲のみ、酒くみかはしなどしておもひおもひの戯す。」

森 鷗外が、明治二十三年に発表した小説『うたかたの記』に、そのような一節が出てきます。
これは当時のドイツでの様子ですから、今のカフェに似ていたものと思われます。
森 鷗外は明治二十年代から、ドイツのカフェに親しんでいたのでしょう。
また、『うたかたの記』には、「カッフェエ ロリアン」という店も出てきます。
鷗外の『うたかたの記』を読んだ明治の読者は、この「カッフェエエ」に憧れたものなんだそうですね。

「伯林のウンター・デン・リンデンを西に曲つた處の小さい珈琲店を思ひ出す。カフエ・クレベスである。」

森 鷗外が明治四十二年に発表した小説『ヰタ・セクスアリス』に、そのような一節があります。
鷗外はベルリンでもカフェによく通ったものと思われます。

「伊吾と二人でカッフェライオンに行く 又カッフェ新橋へより、伊吾の所へ泊まる氣だつたが、やめて自分だけ帰宅」

明治四十五年三月三日、月曜日の、志賀直哉の『日記』に、そのように出ています。
カフェエ ライオンは、明治四十四年の開店。今の銀座四丁目角にあった有名店。

「日比谷の公園はいまだ成らず、鐵道馬車通ひし銀座の四角今ライオン珈琲店ある處には朝野新聞中央新聞毎日新聞などありけり。」

永井荷風が、大正七年に書いた随筆『書かでもの記』に、昔話としてそのように書いてあります。

「カツフエーのテーブルは大方あいてゐたので、手持無沙汰の女給達はあちらこちらの壁際に四五人づゝ寄集つて、コンパクトの箱を掌にかざし、白粉の上塗りばかりしてゐる最中」

昭和三年に、永井荷風が発表した『カツフェー一夕話』に、そのような描写が出てきます。
これもおそらくは「カフェ ライオン」の店内の様子なのでしょう。

カフェが出てくる小説に、『パルムの僧院』があります。1839年の4月、スタンダールが発表した長篇。

「甥はカフェ・ペドロッティからおいしいザンバシオンをとりよせてくれた」

これは1830年、イタリア、パドヴァでの話として。ここでの「ザンバシオン」は、日本でいうところの、卵酒の一種。
スタンダールについて語った作家に、シュテファン・ツヴァイクがいます。

「スタンダールは流行の帽子をかむり黄色の手袋をはめると、鏡に向って試しに冷たく皮肉に笑ってみせる」

余談ではありますが、当時は黄色の手袋が大流行したんだそうですね。
スタンダールは1783年1月23日に、フランスのグルノーブルに生まれています。当時のグルノーブルは手袋の産地として有名でもありました。
手袋。フランスなら「ガン」gant でしょうか。
どなたか黄色のガンを作って頂けませんでしょうか。