フォードとフェア・アイル

フォードは、人の名前にもありますよね。
もちろん自動車の名前にも「フォード」があるのは、ご存じの通り。
でも、もともとはヘンリー・フォードが興した会社なので「フォード」と呼ばれるわけです。
Ford と書いて「フォード」と訓みます。もしかしてアメリカに多い名前なんでしょうか。
たとえば、ジョン・フォード。ジョン・フォードは言わずと知れたアメリカの映画監督であります。
1946年の映画『荒野の決闘』は、ジョン・フォードの代表作と言って良いでしょう。
ジョン・フォードには、名作がありすぎて、ひとつだけを挙げるのは難しいのですが。
ジョン・フォード監督の映画は、一見娯楽映画にも思えるのですが。実はその奥にヒューマニズムが隠されているところにも、特徴があるのでしょう。
ジョン・フォードは、1895年2月1日。アメリカ、メイン州、ケープ・エリザベスに生まれています。お父さんの名前は、ジョン。お母さんの名前は、バーバラだったと伝えられています。兄弟は九人いて、その十番目として生まれているとのことです。
お父さんはポートランドで、酒場を開いていたという。
ヘンリー・フォードは、1915年、三十の時に映画俳優としてデヴュウ。
これは次男の兄、フランシス・フォードが、俳優で、監督でもあったことによるものです。
映画『国民の創生』の端役としてなのですが。これがきっかけとなって、映画の道に進むことになったそうですね。
1924年の無声映画『アイアン・ホース』の監督によって、世間の注目を集めるようになったとか。これはアメリカ横断鉄道を描いた歴史物語だったらしい。
「歴史物」といえば、「西部劇」もまた、歴史物ということだったのでしょうか。
1920年代以降のジョン・フォードが西部劇に熱中するのは、よく識られているところでしょう。
若き日のジョン・フォードは洒落者でもあったようです。今に遺された写真を観ると。バウンスド・エッジのパンツを穿いています。バウンスド・エッジは、ズボンの外縫目を隠すための一種のステッチ。当時の考え方では、外縫目は下品とされたから。少なくと十九世紀までのトラウザーズの外縫目は、なんらかの方法で隠す工夫がなされたものです。
1939年のジョン・フォード監督の映画に、『駅馬車』があります。この『駅馬車』の主役に、当時無名だったジョン・ウエインを起用しています。この『駅馬車』がヒットして、ジョン・ウエインは西部劇には欠かせない俳優となったわけですね。
それ以前のジョン・ウエインは、アルバイトとして映画会社の大道具係だったのです。その大道具係のジョン・ウエインを見込んだのが、ジョン・フォードだったのです。

「三八回これを見たのはこの封切のころ私は日本でのユナイトの宣伝部員だったからである。ヒットだ、驚くべきヒット。」

淀川長治は、『私の映画の神様』と題する随筆の中に、そのように書いてあります。ここでの「これ」とは、『駅馬車』のことを指しているのですが。
この日本での『駅馬車』の好評によって、アメリカの映画会社から、銀時計を贈られたとのことです。1946年頃の話として。
1952年の映画に、『静かなる男』があります。これもまた、「ジョンジョン・コンビ」。ジョン・フォード監督、ジョン・ウエイン主役の映画。
『静かなる男』の背景は、アイルランド。ジョン・フォードのお父さんの出身は、アイルランドで、一生アイルランドを故郷だと思っていたフシがあります。
ジョン・フォードの趣味は、ヨット。ヨットとは言っても、全長110フィートのれっきとした豪華帆船。ジョン・ウエインやヘンリー・フォンダがよく乗りにきた船でもあります。この帆船の名前が、「アラーナ号」。これはアイルランドの島、アラン島に因んでいるとのことです。
ここにもジョン・フォードのアイルランド魂が籠められていたのでしょう。

アイルランドよりもスコットランドを愛したデザイナーに、ココ・シャネルがいます。1920年代のこと。当時シャネルの恋人だったのが、英国のウエストミンスター公爵。ウエストミンスター公爵はスコットランドに広大な別荘を持っていたので。
この別荘には「ラックスフォード川」が流れていて。シャネルはよくこの川で釣りを愉しんだという。
シャネルが釣りをする時の服装は、土地の漁師みたいで、フェア・アイルのスェーターを着た写真が遺っています。
フェア島が、シェットランド諸島に近いことは言うまでもありません。
また、フェア島では、独特の幾何学模様の編み方が発達したことも。
どなたかフェア・アイル・ニットを編んで頂けませんでしょうか。