北斎とボネ

北斎は、日本の絵師ですよね。もちろん、葛飾北斎であります。
葛飾北斎は江戸期の人としては、たいへん長生きをしたお方。その作品数が多いのも当然でしょう。
それは数えられないほどの数。と同時に数えられないほど大量の北斎画が海外に流れてもいます。別の言い方を致しますと、北斎の評価は外国での方が高いのかも知れませんね。

「日本の藝術家中泰西の鑑賞によりて其研究批判の精密を極めるもの、画狂人葛飾北斎に如くものはあらざるべし。」

永井荷風は、『泰西人の見たる葛飾北斎』と題する随筆の中で、そのように書いてあります。
この永井荷風の『泰西人の見たる葛飾北斎』は、多くの葛飾北斎論のなかでも、ことに優れた内容になっています。荷風もまた北斎を高く評価していた一人だったのでしょう。
北斎の代表作。これはあまりに多くて、選ぶのが難しいのですが。たとえば、『富嶽三十六景』があります。この『富嶽三十六景』のなかでも、『神奈川沖浪裏』はよく識られているところでしょう。
作曲家のドビュッシーは、北斎の『神奈川沖浪裏』を観て、『海』を作曲したと伝えられています。

「此繪は富士の形ちのその所によりて異なるを示す、或は七里ケ浜にて見たかたち又は佃島より眺める景など統て一やうならざるを著はし山水を習ふ者便す。」

天保二年(1831年)、『富嶽三十六景』の版元、「西村永壽堂」の宣伝文に、そのように出ています。
天保二年は、北斎七十二の時のことで。版元としても北斎に『富嶽三十六景』を描かせたなら、きっと評判になる。そんな自信があったのでしょう。事実、これは評判になって、「四十六景」にまでなっているのですね。
北斎としても力こぶの入ったに違いありません。
北斎の『神奈川沖浪裏』を観て、誰もが驚くのは、その構図の大胆さ。そしてもうひとつ、藍色の新鮮さ。この藍色にも北斎ならではの秘密があるのです。
その秘密とは、「ベロ藍」。当時、「ベロ藍」と呼ばれた舶来の顔料が用いられているのです。
「ベロ藍」とは、「ベロリン藍」とも呼ばれた絵具。正しくは、「ベルリン・ブルウ」。1704年に、ドイツのベルリンで、J・K・ディッペルが発明した合成顔料だったので、「ベルリン・ブルウ」。藍色の発色に優れているのが、特徴でありました。
北斎は文化二年(1895年)頃から、自ら「画狂人」を名乗っています。北斎は良い絵を描くためには、金を惜しむことがなかった。まさに、「画狂人」。それで、当時高価であった「ベロ藍」をふんだんに遣ったものと思われます。
北斎が1849年、九十歳の天寿を全うしたのは、よく識られているところでしょう。この時の北斎のいまはの際のひと言。

「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし。」

そのように言ったという。あと五年生かしてくれたなら、真っ当な絵師になれたものを。そんな意味だったのでしょうか。
文政十年(1827年)に、北斎は体調を崩して。それを北斎は自分で治しているのです。
「柚子湯」で。柚子を細かく刻んで、酒で煮る。これが水飴くらいになったら火から下ろして。この「柚子湯」を薬として飲んだという。

葛飾北斎が出てくる日記に『ゴンクールの日記』があります。

「今晩のビングの家での日本研究会で、林は北斎の「百歌仙」のための五十七図一揃いを皆に見せてくれた。」

1885年12月28日、月曜日の『日記』に、そのように出ています。
これを手始めとして『ゴンクールの日記』には、何度も北斎の話が出てきます。少なくともゴンクール兄弟が、北斎に魅せられていたことが窺えるでしょう。
『ゴンクールの日記』を読んでおりますと、こんな描写も出てきます。

「頭の上に木綿のボンネットをのせ、看護人が行ったり来たりする通路のすぐ脇の列の椅子に場所を占める。」

1884年1月9日、水曜日の『日記』にそのように書いてあります。これはとある病院での光景として。ボンネットをかぶった見舞客の男なのでしょう。
「ボンネット」。フランスなら、「ボネ」bonnet でしょうか。
「ボネ」はツバがなくてヤマが高い帽子のこと。日本でボネといえばふつう婦人用とされるのですが。男性用のボネもあります。
どなたかベルリン・ブルウのボネを作って頂けませんでしょうか。