咄家と博多織

咄家は、落語家のことですよね。今はふつう落語家と言いますが、昔は「咄家」とも呼んだんだそうです。
落語は、落とし話、笑い話。笑うのは健康の特効薬なんだそうですね。大いに落語を聞きましょう。
「目黒のさんま」。これも落語から生まれ話。その昔、ある殿様が、今の中目黒に狩りに。お供を連れて。途中、腹がへったので、近くの農家で昼飯を所望。この日、たまたまさんまが出て、殿様おかわりを。
それからしばらくして、親戚の家でもさんまを。この間食べたさんまとは味が違う。「これはどこのさんまじゃ? 」。「はい、日本橋の魚市場のもので」。
「うーん、さんまは目黒にかぎる。」
それで、今に「目黒のさんま」の言い方があるわけです。

「其間に有楽座へ行つたり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、」

夏目漱石が、明治四十五年に発表した小説『彼岸過迄」に、そのような一節が出てきます。夏目漱石が落語愛好家だったことは、間違いないでしょう。また、事実
、明治の頃には、寄席が町々にあったそうですから。
「文の上達には、落語を聞くに限る」。そんな説もあるようですね。落語は磨き込まれた会話体ですから。
落語の歴史は、天和九年(1623年)にはじまるとの説があります。この年に、『醒睡笑』が出ています。『醒睡笑』は、その時代の笑い話を一冊に纏めた本。
京都「誓願寺」の僧、策伝の作だと考えられています。
策伝は、金森長近の弟だった人物。金森長近は、豊臣秀吉のお伽衆だったひとり。お伽衆とは、一種のトリックスター。殿様が困った顔をしている時、なにか面白いことを言って笑わせるのが、仕事。
長近の弟は僧侶の道を歩み、せっせと昔から伝わる笑い話を集めたお方なのでしょう。
貞享三年(1687年)には、『鹿の巻筆』が出ています。これは鹿野武右衛門の筆になる笑い話。この鹿野武右衛門こそ、咄家の第一号なんだそうですが。
よく「古典落語」と呼ばれたりもします。だいたい江戸中期から江戸末期にかけての話が中心。古典落語を聞くのは、江戸の風俗の勉強にもなるわけですね。
たとえば、江戸の頃には、今の日本橋に魚市場があっただとか。

「今の咄家とて落話するもの、寛政の比は稀なり」

喜多川守貞の『近世風俗志』に、そのように出ています。喜多川守貞は、「咄家」と書き、「落話」と書いているのですが。
この『近世風俗志』は、江戸時代の百科辞典になってます。たいていの風俗はこの本を開くことで見当がつくようになっています。

「守貞幼年の時、それ故市民の息子は博多帯を用ふといへども、」

『近世風俗志』には、博多帯の話も出てきます。
博多帯、つまり博多織は、天正年間にはじまるとのこと。これにもいくつかの説があるのですが。
博多の商人、満田弥三右衛門が、今の中国から持ち帰った技術が基になって、博多織ははじめられたんだと。
満田弥三右衛門は、仁治二年(1241年)に、中国から帰国。これは僧の、聖一国師について中国に渡り、織物技術を会得したものだそうです。
博多織の特色に、「独鈷」と「華皿」の紋様があります。これはいずれも当時の仏具。聖一国師からのヒントであったという。
帯は、ことに男帯は、博多織にかぎります。第一、締める時の音が美しい。一度締めたら、二度と緩むことがありません。
どなたか極上の博多帯を作って頂けませんでしょうか。