サンフランシスコとサイドゴア・ブーツ

サンフランシスコは、アメリカの都会ですよね。東海岸には、ニュウヨークがあり、西海岸には、サンフランシスコがあります。
アメリカの作家、コーネル・ウールリッチがニュウヨークを背景に小説を書いたように、ダシール・ハメットの小説は多くサンフランシスコが背景になっているのは、ご存じの通り。
サンフランシスコの発展は、1878年にはじまっています。サクラメントで金が発見されたので。いわゆるゴールドラッシュの町だったのですね。
それが証拠に、1840年のサンフランシスコの人口、千人ほどだったという。
1849年者という言葉がありますね。「フォーティ・ナイナー」。金をめざして、サンフランシスコに駆けつけた人のことです。
リーヴァイ・ストラウスもまた、その中のひとりだったのでしょう。その結果掘り当てたのが、ジーンズであったのですが。

「こんどめりけんのさんふらんしすこで博覧会が有るから航海しやうと思ひますが、どうか百万もうけてきて御國のお益にいたしたいと心がけます」

仮名垣魯文が、明治四年に発表した『安具楽鍋』に、そのような一節が出てきます。
たぶんその時代の日本人はサンフランシスコに行けば大儲けができると思っていたのでしょう。

「ここで私は接句的につけ加えるが、上海に於ける支那劇場はサンフランシスコのそれとすこしも異ってはいなかった。」

1877年に、エドワード・シルヴァースターズは、『日本その日その日』の中に、そのように書いています。サンフランシスコにも「チャイナ・シアター」があったのでしょうか。

「桑港へ着いてからの彼の歴史は労働の歴史である。彼は腕の続く限り有らゆる力役に身を委ねた。」

これは「梅吉」という男について。明治二十八年に、川上眉山が発表した小説『大さかづき』に、そのように出ています。
明治の頃からサンフランシスコで働く日本人は珍しくなかったものと思われます。

「四人はタクシーでホテルを出る。運転手は日本人。」

大正九年にサンフランシスコを旅した作家、徳冨蘆花は紀行文の中に、そのように書いています。サンフランシスコのホテルでは食事が美味しくて、つい食べすぎてしまった、とも。
明治二十三年の「朝日新聞」を開いてみますと。汽船の宣伝が出ているのですが。
横濱からサンフランシスコまで「シティ・オブ・リチデジスロ号」が四月九日に出航する、と。
また、親切なことには、いつ、誰が、どの船で着くのか。そんな情報も出ています。
同じく、「東京朝日新聞」の、明治二十二年四月三日の広告を眺めておりますと。

「鉄底靴」の宣伝が出ています。これはもしかしたらスティール・シャンクのことかも知れませんが。
明治十六年に売り出した「木底靴」の、改良型だと、説明されています。当時、日本橋通り三丁目一番地にあった「大日本鉄靴会社」の広告なのですが。
この広告には絵が添えてあって。プル・ストラップ付きのサイドゴア・ブーツになっています。少なくとも明治二十二年の日本にサイドゴア・ブーツがあったのは、間違いないでしょう。どなたか明治期のサイドゴア・ブーツを再現して頂けませんでしょうか。