ライスカレーは、国民食ですよね。カレーが生まれた国はインドなのでしょう。でも、カレーライスは今の日本にすっかり定着しています。
ライスカレーを食べたことのない人はまずいないでしょう。町の食堂でメニュウにライスカレーのない店も珍しい。
ところでライスカレーはいつの頃からあったのか。いや、その前に、ライスカレーなのか、カレーライスなのか。
「富ライ於ムレツ雷スカレイを凌駕するの傑作を出だせや」
明治二十二年に、斎藤緑雨が発表した小説『小説八宗』に、そのような一節が出てきます。「雷スカレイ」。そんな言い方があったのでしょうか。それはともかく、明治中期には、「ライスカレー」が主流だったことが窺えるでしょう。
「夕 ライスカレー三碗 佃煮 ナラ漬 」
明治三十五年九月十七日の『仰臥漫録』に、そのように出ています。もちろん、正岡子規の『日記』ですね。正岡子規もまた、「ライスカレー派」だったのでしょう。
「『今、ライスカレーをつくるから、一所に食つて行き給へ』かう言て、國木田君は勝手の方に立つて行つた。」
大正六年に、田山花袋が発表した『東京の三十年』に、そのように書いています。これは田山花袋がはじめて、國木田独歩を訪ねた時の様子として。たぶん田山花袋は、國木田独歩の手作りのライスカレーをご馳走になったものと思われます。
「それにカレーライスというやつは家庭料理の中でも安上りの料理に属するな。」
1954年に、梅崎春生が発表した小説『砂時計』に、そのような会話が出てきます。
戦前には「ライスカレー」が主で、戦後になってから、「カレーライス」の言い方が広まったものと思われます。
『砂時計』は、カレーの言葉が五十回くらい出てくる小説なのですが。
「早稲田大学のそばの「紺碧」と「なよ竹」のカレーライスで、初めの頃にはともに五十円であったが」
長部日出雄は『カレーライス』と題する随筆に、そのように書いています。昭和二十八年頃の思い出として。
長部日出雄は渋谷のムルギーカレーがお好きだったとも。当時のムルギーカレーは、70円で、店の名前も「エクリヤ」だったと、書いているのですが。
「馬道の大通りにまだ起きている支那ソバや十銭のライスカレーを食わせる店があった。」
昭和十年に、武田麟太郎が発表した短篇『一の酉』に、そのような一節が出てきます。これは昭和十年頃の浅草での様子として。
その時代のライスカレーは、十銭くらいだったのでしょうか。
武田麟太郎が昭和七年に発表した『銀座八丁』に、こんな描写が出てきます。
「流行のラグランのスプリングコートの下には、英国風に仕立てたライトグレイの子格子縞を均斉のとれた軍隊帰りの身体にうまく着こなし」
これは銀座のバア「ロオトンヌ」のバアテンダー、藤井の姿として。
「ラグラン」raglan はもともと、1863年のクリミア戦争で戦った、ラグラン将軍の名前。本来は袖無し外套の呼び名だったのです。
そこから転じて、「ラグラン・スリーヴ」の呼び方が生まれたものです。これは1924年頃からの名称だと考えられています。
どなたかラグラン・スリーヴの美しい外套を仕立てて頂けませんでしょうか。