セイフティ・ピン(safty pin)

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

最簡素美品

セイフティ・ピンは安全ピンのことである。安全ピンはごく身近かな小道具。誰も特に気にとめたりはしないが、いざという時には大いに役立ってくれるものである。
セイフティ・ピンの守備範囲は広い。我われが気づかない意外なところで、そっと働いてくれていたりする。その意味では、縁の下の力持ちでもあろう。
安全ピンが活躍する場所としては、駅伝やマラソンがある。出場選手の胸に付けるゼッケンは、まず例外なくセイフティ・ピンである。私は昔、学生服に安全ピンを使ったことがある。学生服の内側、ウエスト位置で、左右をピンで留める。と、少しシルエットが細くすることができたからだ。
今の時代に、服の上に無数の安全ピンを飾ったなら、パンク風になってしまうかも知れない。安全ピンにおける無意味な過剰は、何かのメッセージにもなるのだろう。
現在のセイフティ・ピンを発明したのは、ウォルター・ハントであるという。1849年4月10日に特許を得ている。特許番号は、「6,281」であったと記録されている。ただしその時の名称は、「ドレス・ピン」 dress pin であったとのこと。やはり服装に使うことを想定していたのであろうか。
それはともかく、「ドレス・ピン」もなかなか良い名前ではないか。
ウォルター・ハントは発明家であって、1854年には「ペイパー・カラー」を考案してもいる。これは読んで字のごとく「紙の襟」であって、つまりは使い捨て式のカラーだったのだ。
そしてまた、ウォルター・ハントは、アメリカでのミシンの発明者でもあった。余談ではあるがウォルター・ハントは1899年6月、六十三歳で世を去っている。
ウォルター・ハントのドレス・ピンが優れていたのは、針金のバネ性を巧みに利用していたところであろう。このバネの力によって、ピンを開けたり閉じたりするのが、楽らくとできたからである。
ドレス・ピンは十九世紀の発明品であったが、それ以前にセイフティ・ピンらしきものがなかったわけではない。

「ショールは相変わらず服装を構成する主要なものであったが、そのショールの下に裕福な女性たちは、金製の長いピンで両肩で固定された豪華な模様のあしらわれた丈の短いテュニックを着けている。」

ミッシェル・ボーリュウ著中村祐三訳『服飾の歴史』には、そのように説明されている。これは古代シュメール人の、紀元前二千年ほど前の着こなしにふれたものである。
古代人の服装にはまだボタンは登場していなく、その代わりにピンを使ったのである。
たとえば古代ローマには「フィブラ」fibula と呼ばれる美しいピンのあったことが知られている。英語ではふつう「フィビューラ」と発音するようである。一方、フランスでは、「フィビュール」fibule となるのであるらしい。
古代ローマ以前のギリシアにも「ドレス・ピン」はあったようである。というよりも一枚の布を身体に巻きつけ、最後にピンで留めることによって衣裳として完成させたのだ。そのためのピンは、「ぺローネ」 perone の名で呼ばれたのである。ペローネはふつう左肩の上で留めたという。
このペローネにせよフィブラにせよ、基本的には今日のセイフティ・ピンと同じ構造であったのだ。ただ両者の違いを探すなら、古代のピンはまことに装飾的であった。
紀元前八世紀のものと思われるエトルリアのフィブラを見る限り、精巧この上ない細微な彫刻が施されている。
あるいは古代ローマの勇者たちを描いたレリーフにも、フィブラがあらわれている。それは短いマントを肩の上を、フィブラで留めている姿なのだ。フィブラが必ずしも女性専用ではなかったことが窺えるに違いない。
それはゴールド製のやや円盤に近い形のフィブラであったりしたのである。円盤型のフィブラから容易に想像できるのは、今のブローチであろう。ブローチの歴史もまた、フィブラと無関係ではないはずだ。
中世の英国にもフィブラに似たピンがあった。それは単に「ピン」 pin と呼ばれたのであるのだが。中世のピンは高価な貴重品で、それを買うための貯金を、「ピン・マネー」と言った。そしてまた、ピンを売っても良い時期が定められてもいたのである。しかし星は移り川は流れ、今の「ピン・マネー」は、「小遣い銭」の意味になっているのだが。

「石原さんが安全ピンを持って来てくれたので、幕のほうはそれでとめた。」

竜胆寺雄著『放浪時代』 ( 昭和三年刊 )の一文。これは自分たちで店を開こうとして、その準備をしている場面。幕にピンが使えるのなら、服にはもっとピンが使えるのではないだろうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone