明石とシャツ

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明石と名のつくひとに,明石志賀之助がいますよね。初代の横綱ともいわれていて。とにかく身長が251センチ以上もあったらしい。栃木の出身で。今の「四十八手」を考えたのも、明石志賀之助だったとか。
でも、その一方で。明石志賀之助は伝説上の人物で、ほんとうにはいなかったとする説もあるようですが。とにかく明石志賀之助の存在については、今も結論が出ていません。
間違いなく実在するのが、明石。明石は神戸と姫路の間くらいにあって。佳い所です。第一、食べ物が美味しい。ことに海の幸にも恵まれています。明石の鯛、明石の蛸。だからこそ明石焼も生まれたのでしょうね。明石焼はたこ焼きに似て、たこ焼きにあらず。明石焼を研究すれば、一冊の論文が生まれることでしょうね。

「この明石に来たり其静閑なること雨声の如き濤声をきき、心耳澄すことを得たり、何等の至福ぞや…………」。

永井荷風はかの有名な『断腸亭日乗』に、そのように書いています。昭和二十年六月三日のところに。
昭和二十年といえば、第二次大戦末期。空襲があまりに激しくなって。荷風は一時期、明石に疎開しています。六月二日に東京駅を発って、六月三日に明石に着いています。渋谷駅で、関西に行くための切符を買うのに、そうとうの苦労もあったようですが。
六月六日には荷風、明石で苺を食べています。その表現に、「西洋苺」と書いているのですが。それはともかく、東京から明石に来た荷風、大いに寛いでいる様子が見てとれます。
それより少し前の、四月二十二日の日記には。市兵衛町二丁目の洗濯屋に行った、なんて話も出ています。市兵衛町はもと荷風の住まいがあった所。今の六本木一丁目あたり。 この日の日記に、その頃のシャツの値段が出ていて、興味惹かれます。

「ホワイトシャツ 一ツ 金弐百円也…………」。

昭和二十年の「弐百円」は、今のいくらくらいなのでしょうか。
それはともかく、「ホワイトシャツ」の言い方、いいですね。まさしく、ホワイト・シャツなんですからね。少なくとも永井荷風は、昭和二十年に「ホワイトシャツ」の表現を遣っていること、間違いありません。

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