鞄は、物を入れて運ぶ容れ物のことですよね。英語なら「バッグ」でしょうか。フランス語なら「サック」でしょうか。
鞄は、中国の「夾板」から来ているとの説があります。夾板は、「紙ばさみ」の意味。この夾板を日本語訓みにして、「かばん」。かばんに宛字して「鞄」の言葉が生まれたんだとか。
そうかと思えば「鞄」の文字は昔からあった、とも。ただし古い「鞄」は、鞣し皮の意味であったとも、考えられています。諸説紛々とはまさにこのことでしょう。
明治三十四年に、徳冨蘆花が発表した『思出の記』の中に。
「伯母は荷造りをした鞄の傍に坐つて、何か紙きれを持ちながら、泣き沈んで居る。」
と書いています。「鞄」の脇に「かばん」のルビがふってあるので、間違いないでしょう。これは文章にあらわれた「鞄」 ( かばん )としては、かなりはやい例かと思われます。
たとえば明治十九年に、末廣鉄腸が書いた『雪中梅』では、「革手提」となっています。「革手提」と書いてこれを、「かばん」と訓ませているのです。
つまり、まず「かばん」の言葉があり、次に宛字としての「鞄」が生まれた、ということなのでしょう。では、「鞄」の文字が「かばん」と訓まれるようになったのは、いつか。だいたい明治二十年頃だろうと、考えられています。
鞄が出てくる戯曲に、『働き手』があります。1930年に、サマセット・モオムが発表した演劇。1930年9月に倫敦の、「ヴァードヴィル劇場」で上演されています。この中に。
「どうして? 鞄を一つ持って行くだけだ。」
これは主人公の、チャールズ・バットルの科白。外出にバッグを持って出るのは、当たり前のことでしょう。また、『働き手』には、こんな場面も出てきます。
「君のヒスイのブローチ、僕に残してくれる? いいカフスボタンになるから。」
これは、アルフレッド・グレンジャーの息子、ティモシーの科白。
なるほど。翡翠のカフ・リンクスも佳いでしょうね。ことに誰かさんのブロオチから作られたとしたら、一生物でしょう。
そういえば、鞄も一生物でありたいものですが。