煮物は、料理の基本ですよね。出汁で煮ることで旨味が増してくれるのですから。
かぼちゃの煮物は旨いものです。生のかぼちゃが大好きというお方は珍しい。
ゆっくりと煮てこそ、あの柔らかい歯触りがあるのでしょう。かぼちゃは煮るという。米は炊くという。これも関東語なのでしょうか。
関西では多く、「炊く」と言います。「炊き物」。ふつう「炊いたん」。これは関西語ならではの表現でしょう。
江戸時代には、「煮やっこ」の言い方があったらしい。
「葛湯を至極だまのたつほどに沸たたし豆腐を壱人分入れ、蓋をせず見てゐて少しうごきいでてまさにうきあがらんとするところをすくひあげるもの也」
1782年刊行の『豆腐百珍』に、そのように出ています。『豆腐百珍』では料理を六段階に分けて説明しています。「煮やっこ」はそのうちの最上級「絶品」に分類されているのです。ひとくちに煮物とは言ってもなかなかに奥の深いものがあるのでしょう。
煮物がお得意だった作家に、水上 勉がいます。いや、煮物だけでなく料理全般に通じていたお方なのですが。
「干椎茸と高野豆腐を両方とも水と湯につけてもどしたものを、昆布だし汁に砂糖、酒をコトコト煮ふくめた。汁がなくなるまで煮たのだ。」
水上 勉は『精選百撰』の中に、そのように書いています。これは「干椎茸と高野豆腐」という一品について。
水上 勉は昭和七年、十三歳の時に、「等持院」という寺に入っています。この寺で、精進料理を覚えたんだそうですから、筋金入りと言って良いでしょう。
「九つから禅宗寺院の倉裡で、何を得したかと問われれば、先ず精進料理をおぼえたことだろう。」
水上 勉は『土を喰う日々』の中に、そのように書いています。
水上 勉は意外にも思われるかも知れませんが、一時期繊維新聞の編集に携っていたことがあります。昭和二十八年のこと。水上
勉は三十四歳の時なのですが。『月間繊維』を発行する「繊維経済研究所」に席を置いていたので。
その後、昭和二十九年の四月には、友人と語らって、『東京服飾新聞』をはじめてもいます。もっともこれは必ずしも成功しなかったようですが。
その後の水上 勉はしばらくの間、洋服の行商人を。その行商の間にせっせと小説原稿を書いていたのだそうですね。
水上
勉が第一作と言って良い『霧と影』を発表するのが、昭和三十四年のこと。これはミステリ仕立てだったのですが、好評。この時に推薦文を「帯」に書いたにが、宇野浩二。宇野浩二は昭和三十一年以来、水上
勉が師匠と仰いできた人物だったので。
「数年前だったか、イギリスの劇作家、アーノルド・ウェスカー氏が、演出家の木村光一さんにつれられて、拙宅へみえたことがあった。」
水上 勉は『土を喰う日々』に、そんな話も書いています。その日の夜は遅い時間で。水上
勉はウェスカーに、酒のつまみに、高野豆腐を出した。と、ウェスカーは、ことの他その高野豆腐がお気に召したという。「極上のスープだった」と。
アーノルド・ウェスカーは、以前料理人だった人物。『調理場』の戯曲でデヴュウした作家。
しばらくの間、水上 勉は高野豆腐の説明をし、ウェスカーは「極上スープ」だと言って、話がはずんだそうですね。
「ぼくは大正八年三月八日に生れた。」水上 勉は『私の履歴書』に、そのように記しています。この中にはむろん寺での修行時代のことも出てくるのですが。
「ニッカズボンの監督が、銀紙を貼った板を部下に持たせ、「用意はいツ」で撮ってゆく光景は、おもしろく、深夜まで続く。」
これは「持等院」がよく映画撮影の場所に使われたので。昭和九年頃の話かと思われます。当時の映画監督は、ニッカーボッカーズが制服のようなものであったらしい。ニッカーボッカーズにハンチングをかぶって、メガホン持てば、それは映画監督の姿だったのです。
どなたか昭和はじめのニッカーボッカーズを再現して頂けませんでしょうか。