周作とショセット

周作は、男の人の名前にもありますよね。
たとえば、千葉周作だとか。千葉周作は江戸末期の剣豪であります。北辰一刀流の開祖なんだそうです。
1825年の秋には、神田お玉が池に道場を開いて。一時は門弟一万人を誇ったという。
文豪の方で周作といえば、遠藤周作でしょうか。
遠藤周作は大正十二年三月二十七日に、東京の巣鴨に生まれています。
お父さんは、常久。お母さんは、郁だったそうですね。
昭和八年、周作十歳の時、西宮の「夙川カトリック教会」で、キリスト教信者になっています。
昭和二十五年、二十七歳の遠藤周作は、フランスに留学。
マルセイユに船で着いたのが、1950年7月5日。この時、マルセイユで遠藤周作を出迎えたのが、ジョルジュ・ネラン。その後、ジョルジュ・ネランは宣教師として日本に。
遠藤周作はジョルジュ・ネランをモデルに小説を書いてもいます。1959年発表の『おバカさん』がそれです。もっとも小説の中では「ガストン」の名前になっているのですが。
ネランは一時期、新宿の歌舞伎町でバアを開いて。名前は「エポパ」。このバアに来る客を相手に宣教しようと考えて。
1980年代になって、遠藤周作はジョルジュ・ネランと対談しています。
「マルセイユに留学生のぼくたちが着いたときに神父さんがきてくださって、大変お世話になった。」
遠藤周作は対談の中で、そのように語っています。
ジョルジュ・ネランは1920年2月2日、リヨンに生まれています。1950年7月5日にはまだ神父になったばかりの頃であったという。
遠藤周作はフランス留学中、ひとつの恋愛があったと伝えられています。
その時の遠藤周作は、二十七歳の独身で、異国で、胸に病を抱えていて。恋愛があったのも、当然のことでしょう。
その人の名前は、フランソワーズ・パストル。1930年3月23日に、フランスのロレーヌ地方のお生まれ。1951年には、二十一歳だった計算になります。
当時のフランソワーズ・パストルは、哲学専攻の学生だったそうですが。
遠藤周作がパストルにプロポーズしたことも間違いないようです。ただし二人の関係はあくまでも純粋のままだったと考えられているのですが。
フランソワーズ・パストルは1965年に、遠藤周作とは関係なく、観光として日本に。その時、パストルは日本が好きになって。
1967年に、もう一度日本に。この時には、「北海道大学」のフランス語の教師として。
ところが、1971年に、パストルに悪い病気が発見されて。4月3日に、永眠。四十一歳でありました。

「あした、俺がヨーロッパを去るという日、女はマルセイユまで送ってきた。」

遠藤周作は長篇小説『アデンまで』の第一行に、そのように書いています。ここでの「女」が、パストルであるのは、言うまでもないでしょう。1953年1月12日のことであります。
その時の遠藤周作に帰国のつもりはありませんでした。まだ学ぶことがあったので。しかし、結核の病状が進んでいて、日本に帰らざるを得なかったのです。

遠藤周作が若い頃から興味を持っていた作家に、フランソワ・モーリャックがいます。事実、遠藤周作は後に進んで、モーリャックの日本語訳に手をつけています。
フランソワ・モーリャックが1924年に発表した小説『愛の砂漠』にも、遠藤周作訳があります。

「脚を組んでは、この上なく凝った靴下と、ぴかぴかに光らせた靴を目立たせるようにした。」

これは「レイモン・クーレージュ」の様子として。
「凝った靴下」。何がどう凝っているのか。シルクの靴下か、カシミアの靴下か。
靴下はフランスでは、「ショセット」chausette 。
どなたかヴァイキューナの靴下を作って頂けませんでしょうか。