栄は、人の名前にもありますよね。
この場合には、栄と書いて「えい」と訓むのですが。もちろん、「さかえ」と訓むこともあるでしょうが。
ここでは「栄」(えい)について。江戸時代には、たいてい「お栄」と訓んだものです。
たとえば、葛飾 栄。葛飾北斎の娘なので、葛飾 栄。三女。
葛飾 栄もまた絵師でありまして、「応為」の画名を持っていました。
北斎がいつも「おーい」と読んでいましたので、「応為」の画名になったという。
葛飾応為の描いた『月下砧打美人画』は、今、「国立博物館」所蔵となっています。
江戸時代には皆、砧を打ったもの。織上げた布を滑らかにするために。
夜、月の光で砧を打っている美人が描かれているものです。
北斎は応為について、こんなことを言ったらしい。
「美人画ならわしより上手じゃ」
応為は一度結婚したものの、結局家に戻っています。その後は北斎の絵の手伝いをしていたそうですね。
葛飾応為が出てくる『日記』に、『ゴンクール日記』があります。
「そして北斎の娘(お栄、応為と称した)が挿絵した本では結婚とそれにまつわる話が語られており、」
1890年1月28日、火曜日の『日記』にそのように書いてあります。
エドモンド・ゴンクールが北斎をはじめとする浮世絵の愛好家であり、収集家でもあったのは言うまでもないでしょう。
エドモンド・ゴンクールには、『北斎』の著書もあるほどに。並の日本人よりゴンクールの方が北斎や浮世絵に詳しかったに違いありません。
「北斎には娘が三人あり、末娘は腕のよい絵師となった。彼女は南澤に嫁いだが離縁した。」
エドモンド・ゴンクールが1896年に発表した『北斎』には、そのように出ています。
応為が嫁いだ南澤もまた、絵師。一説によりますと南澤の描いた絵を応為が笑ったので、離縁することになったとも。
それはともかく、葛飾応為のことはほとんど分かっていません。生年月日さえ伝えられてはいないのです。まずは「謎の絵師」と言って良いでしょう。
エドモンド・ゴンクールに北斎のことを伝えたのが、日本人の、林 忠正。1878年頃のこと。
その頃の林 忠正は巴里で画商をやっていたのです。
「夕食が済むと、日本人がひとり入ってきて、墨をすりはじめた。」
1878年10月31日、木曜日の『日記』にそのように書いています。
ここでの「日本人」が、林 忠正だったろうと考えられています。これが、初対面。
その後、ゴンクールと林 忠正とは急速に親しくなっています。
ある時、林 忠正は見事な日本の帯を持ってきて。でも、よく見ると染みの跡が。
「これは良いものだが惜しいことに、染みがあるね。」と、ゴンクール。これに対する林 忠正の言葉。
「おっしゃる通り染みがあります。でも、昔の日本の美女の汗まで所有できるのですから。」
ゴンクールはこのような林 忠正のウイットをも好んだと伝えられています。
また、『ゴンクール日記』には、こんな描写も出てきます。
「若いモンテスキュー=ブザンサックである、わたしに会いに来るためにスコットランドの一氏族のタータン模様のズボンを一着に及び、」
1882年6月14日、水曜日の『日記』にそのように出ています。
ここでの「モンテスキュー=ブザンサック」は、当時の巴里で、もっとも洒落者だと考えられている人物。
ユイスマンやプルーストの小説のモデルにもなっています。
また、「タータン模様」は、フランスでいうところの「エコセ」かと思われます。
どなたかエコセのパンタロンを仕立てて頂けませんでしょうか。