僕とホームスパン

僕は、男の子の遣う一人称ですよね。女の子はあまり僕とは言わないでしょうが。
男の子の一人称にもいくつかあります。
「私」もあれば、「自分」もあり、「俺」もあるでしょう。
石原裕次郎の歌に『俺は待ってるぜ』があるように。これが『わたしは待ってます』では多きく気分が変ってきます。
「僕」もまた、古語のひとつ。古い時代からの言葉なんだそうですね。たとえば、「下僕」の言葉もあります。「やつがれ」の意味。自分をへりくだって「僕」と言ったのでしょう。
人には「私」が似合う人も、「俺」が似合う人も、また、「僕」が似合う人もいます。
私の知る範囲で、晩年に至るまで「僕」が似合ったお方、小林秀雄がいます。
小林秀雄には、『僕の大学時代』と題する随筆があります。おそらく大正十四年頃の想い出を綴ったものでしょう。
小林秀雄は大正十四年の四月に、今の「東大」に入っていますから。仏文に。中原中也と知りあったのも、この年のことです。

「併し靴は高価なものを使用していた。これは辰野隆先生から戴いたものである。赭い短靴で、先生が出来るだけ頑丈に造らせたものだが、あまりに頑丈に出来てあったので、履かずに取って置いたという説明附きで僕は戴いた。」

小林秀雄は『僕の学生時代』に、そのように書いています。
ここでの「辰野隆先生」が、当時東大のフランス語の先生だった、辰野 隆であるのは言うまでもありません。
小林秀雄はその靴を実際に履いてみて、その頑丈であることに驚いたそうですが。おそらく登山靴の手法で手縫いにした靴だったのでしょう。

小林秀雄の初期論文を読んでおりますと。

「私にこの小論を書かせるものはこの作者に対する私の敬愛だが、また騒然と粉飾した今日新時代宣伝者等に対する私の嫌悪でもある。」

昭和五年に、小林秀雄が書いた『志賀直哉』にそのように出ています。
わずか一行の中に、「私」が三回遣われています。が、これは文章語としての「私」だったのではないでしょうか。
ふだんの暮しの中では、「僕」と言っていたのだと思います。
同じく小林秀雄の初期論文に、『アシルと亀の子』があります。この中に。小林秀雄が、川端康成の所に行く話が出てきます。

「今度はじめて文芸時評をするので、雑誌ひと揃い貸して下さい。」

小林秀雄は、川端康成にそのように言った。これに対する川端康成の反応。

「君みたいに何も知らない男がかい」。

川端康成はそう言って、吹き出してしまった。小林秀雄はそうも書いているのですが。
しかしこの『アシルと亀の子』は、世間では評価されたのです。

「まるで文学が結晶したような人だ。」と僕らの仲間のひとりが言ったのを覚えています。」

文芸評論家の、中村光夫は、はじめてあった小林秀雄の印象をそのように語っています。
昭和四年の秋のこと、中村光夫は小林秀雄の文章を読んで、講演を頼みに自宅を訪ねて。
その頃の小林秀雄は田端駅の近くに住んでいたのですが。
その後、鎌倉に越すのが、昭和六年のこと。以来、昭和五十八年に八十一歳で世を去るまで、鎌倉を愛した人物なのです。
鎌倉。当時は文士が多く住んでいたからでもあったでしょう。
その時代、まだ観光客の少ない鎌倉の町を歩くと、小林秀雄の姿を見かけることがありました。私の頭の中には、ホームスパンの上着を着た小林秀雄の印象が遺っているのですが。
「ホームスパン」homespun
。読んで字のごとく、「家内紡ぎ」。その昔、スコットランドの農民が、自分たちの着る服の材料として、ウールを紡いだのが、はじまり。今のトゥイードの前身でもありますトゥイードが綾織であるのに対して、ホームスパンは平織。
「ホームスパン」の言葉は、1620年頃から用いられています。一方の「トゥイード」は十九世紀に入ってから生まれた言葉なのです。
どなたか古いホームスパンで、上着を仕立てて頂けませんでしょうか。