洒落者のベスト・フレンド
ウエイストコートは、ヴェストのことである。ヴェスト vest とは、チョッキのことである。フランスでは、「ジレ」 gilet という。
ふつうイギリスで「ウエイストコート」、アメリカで「ヴェスト」と呼ぶことが多い。が、イギリスで「ヴェスト」と言わないわけでもない。
「昨日、王様は、今後は新しい服装を身に着ける事にしたい、とおっしゃった。」
1666年10月8日の「日記」にそう書いている。ここでの「王様」とは、チャールズ二世のことであり、「新しい服装」とはヴェストのことであった。つまり、チャールズ二世は、10月7日に、「ヴェスト」の言葉を使っているのである。
これは、ロンドン大火と直接に結びついている。1666年9月1日、ロンドン大火。ロンドン市内の85%が全焼したという。そのために財政を立て直す必要があり、華美な服装を慎もうとの、趣旨であったのだ。十七世紀、英国の貴族たちがいかに絢爛たる衣裳であったかを物語るものでもあろう。
ここから少し時代は飛ぶ。いわゆる英国のリジェンシー時代は、1811年からはじまる。もちろん後の、ジョージ四世のことである。ジョージ四世は、かのボオ・ブランメルのパトロンでもあった人物として知られている。
ジョージ四世、1830年6月26日に、崩御。後で数えてみると、美々しいウエイストコートが三百枚遺されていたと、伝えられている。
キングがそうであるのなら、文豪もまた、というわけではないが。チャールズ・ディケンズは、1842年にアメリカへの長期旅行に出ている。この時、ディケンズがもっとも悩んだこと。それは、どれとどれのウエイストコートを何枚持って行くか、ということであったのだ。
1849年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』誌三月号に、テイル・コートの紳士が描かれている。そのテイル・コートの下には、もちろんウエイストコートが重ねられている。それはシングル前の、7つボタン型で、短いロール・カラーのデザイン。素材はシルク地で、花柄があしらわれている。ただしポケットなどは付いていない。裾は水平にカットされたスタイルである。
同じ年の『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』誌六月号には、フロック・コート姿が登場している。フロック・コートの下はウエイストコートで、やはりシングル前の7つボタン型。それは織柄地であるところからして、絹地であろう。
1850年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』誌七月号に、リゾートスタイルとしての、ラウンジ・ジャケットが描かれている。ラウンジ・ジャケットの下には、片前6つボタン型のウエイストコートを重ねている。このウエイストコートの生地は、ウール地かと思われる。そして裾も水平ではなく、やや今日のヴェスト・ポイントに近い感じである。さらには、小さなフラップ・ポケットが添えられてもいる。
以上のことから推測できるのは、1840年代以前にはシルク地のウエイストコートが主流だったものと思われる。一方、1850年代以降は、ウール地のウエイストコートが多くなってゆくのであろう。
「私の独創的な意見を、私のウエイストコートやクラヴァット無しに語るのは、難しい。」
これは、オスカー・ワイルドの名言である。十九世紀末、いかにウエイストコートが重要であったかを物語るものでもあろう。
エドワード七世が皇太子の時代に、ウエイストコートの一番下のボタンを外しておくことにしたのも、ちょうどその頃のことであったのだ。
「パパ、そんなうすい上着とリンネルのチョッキでパリまでドライブなさるの大丈夫?」
モーリス・ルブラン作『リュパンの冒険』( 1908年刊) の一節。これは、グイネル・スルタンという富豪の着こなしを、娘のジェルメーヌの目から見ての科白。
そういえば、昔の紳士は盛夏でも必ずウエイストコートを着用したものである。