密やかな私室での悦楽
スリッパーズは、部屋履きのことである。昔は寝室などでも使われたので、「ベッドルーム・スリッパーズ」とも言った。あるいはまた、多く天鵞絨地でも作られるので、「ヴェルヴェット・スリッパーズ」とも。
なぜ、スリッパーズには、ヴェルヴェットが使われるのか。それは十九世紀の部屋着であるスモーキング・ジャケットによくヴェルヴェットが使われたからであろう。
ヴェルヴェット製であるかどうかはさておき、スリッパーズがかなり昔からあったことは想像に難くない。
たとえば石造りの館も中で、外出用の靴を脱いだなら、なにか軽い履物が欲しくもあっただろう。1478年にパストンが書いた手紙の中に、「一足のスリッパーズ」という文章が出てくる。パストンは英国、ノーフォーク州の、家族名。裁判官であった、ウイリアム・パストンをはじめとして、十五世紀の生活記録を遺した一家として知られている。
たしかに「スリッパーズ」と書かれているのだが、その綴りは、sclypper となっているのだ。それほど古くから、スリッパーズはあったのだろう。少なくともこの1478年の一例は、比較的はやいスリッパーズの言葉であろうと考えられている。
1735年に、ウイリアム・ホガースが描いた『ザ・レイクス・プログレス二世』という絵がある。ここには当時の部屋着姿があらわれている。頭にはターバン、足にはスリッパーズ。スリッパーズではあるのだが、ミュールにも似ている。ミュールはフランス風の、踵のないスタイル。十八世紀には、ミュール式のスリッパーズが少なくなかったようである。
1740年頃に、ジョセフ・ハイモアの描いた『ご立腹のご主人』という絵がある。これもまた、室内での様子であるから、スリッパーズを履いている。これも、ミュールに似たスリッパーズである。
本来、ルームシューズであるはずのスリッパーズに、意匠が凝らされるようになるのは、1767年頃からのことである。たとえば緋色のモロッコ革に、イエローの踵を添えスリッパーズは、その時代の流行であった。あるいは、ブルーのモロッコ革のスリッパーズは、優雅なる履物とされたのである。
「その紳士は甲に黒いリボンを飾ったスリッパーズで、公衆の面前にあらわれた。」
1785年『ジョン・クロウジャーの日記』の一節。この頃のスリッパーズには絹のりぼがあしらわれるようになっていたものと思われる。
もっともそれより前の、1770年代すでにロゼットがあったから、ロゼットの簡略版としてのリボンだったのであろう。「ロゼット」 rosette は「薔薇飾り」のこと。薔薇の花のような飾り。
「彼はゆったりとしたベッド・ガウンを羽織り、スリッパーズを履いていた。
これはチャーチルズ・ディケンズの『二都物語』( 1859年) の一文。部屋着であるからには、スリッパーズが当然でもあるだろう。
「あらゆるヴェルヴェット・スリッパーズの中で最上のものは、金糸で頭文字や紋章を刺繍であしらったものである。これは自宅での夕食や、部屋を歩くのに最適なのだ。」
1964年に、ハーディ・エイミスが書いた『ファッションのABC』には、そのように出ている。ハーディ・エイミスは、わざわざ章を設けているのだから、スリッパーズはイギリス人にとっては欠かせない小道具なのであろう。ただし「紋章」と言われても困るのだが。
ウインストンのチャーチルのカントリー・ハウスは、ケント州、チャートウエルにあった。チャーチルはこの屋敷で寛ぐ時に、ヴェルヴェット・スリッパーズを愛用した。チャーチルは別名、マルボロー公爵でもあって、クレスト(紋章)には事欠かない。
しかしマルボロー公爵のヴェルヴェット・スリッパーズには、頭文字だけが記されていた。これもまた、粋なことなのであるのかも知れない。