シェイクスピアとシャンタン

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シェイクスピアが、あのウイリアム・シェイクスピアであるのは、言うまでもないでしょうね。
会話の間にシェイクスピアのひと言でも挟むのは、英国人にとって教養のひとつとなっているようです。だいたい学校で朗読の時間があって、シェイクスピアを読むのはごく普通のことになっていますから、当然でもあるのでしょう。
シェイクスピアが、ストラットフォード・アポン・エイヴォンで生まれたのは広く知られている通りです。シェイクスピアが生まれた頃のストラットフォード・アポン・エイヴォンの人口、1500人ほどであったらしい。ストラットフォード・アポン・エイヴォンは、今も、静かな、美しい町です。
ストラットフォード・アポン・エイヴォンでは、毎年の4月23日に、「シェイクスピア祭」といったものが行われます。1564年4月23日は、ウイリアム・シェイクスピアが生まれた日と考えられているから。ただし、必ずしも正確ではありません。ウイリアムが、4月26日に洗礼を受けた記録があって、そこから遡って、4月23日だろうと推定されているのです。
ウイリアムのお父さんの名前は、ジョン・シェイクスピア。お母さんの名前は、メアリー・シェイクスピア。ジョン・シェイクスピアは職人で、かなり裕福な家庭だったと伝えられています。
ジョン・シェイクスピアは、主に、手袋職人。それもかなり高級手袋を作る名人級の職人だったらしい。エリザベス朝の紳士淑女にとっての手袋は栄華のしるしでもありましたから、得意先に事欠くことはなかったものと思われます。
しかし息子のウイリアムは、手袋職人を継ぐことはありませんでした。なぜか、役者の道を選んだのです。そして役者から、劇作家に。シェイクスピアが劇作を学んだ形跡はありません。すべて独学で多くの傑作を遺しているのですね。
シェイクスピアが出てくるミステリに、『スナップ・ショット』があります。1982年に、A・J・クィネルが発表した物語。

「 「 シェイクスピアなら少々読みましたが」 」

これは大富豪、ウォルター・プラムの言葉。「詩を読みますか?」と問われての返事として。
『スナップ・ショット』には、こんな描写も。

「彼女はベージュの山東絹で作ったシャツウエイスト・ドレスに身をくるんでいた。」

「彼女」とは、ジャニーヌ・ルサージュ。フランスのスパイという設定。「山東絹」の横には、「シャンタン」のルビがふってあります。シャンタンが紳士のスーツ地として用いられることもあります。節糸が飛んだ、野趣あふれる絹地。
シャンタンの服を着て、シェイクスピアの本を探しに行くとしましょうか。

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