鹿児島とカラー

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鹿児島は、いい所ですよね。美味しい食べ物がたくさんあります。それも鹿児島独特の美味も少なくありません。
たとえば、今なお「薩摩揚げ」の言葉があるのも一例でしょう。
鹿児島生まれの洋画家といえば、黒田清輝。黒田清輝は、慶應二年六月二十九日に生まれています。小さい時の名前は、新太郎。もっとも大きくなってからも、時に「新太郎」の名前も使っているようですが。
黒田清輝は、明治十七年に、フランス留学。1884年3月18日に、巴里に着いています。黒田清輝、十八歳の時。十九になる少し前のことです。
1890年の6月。巴里近郊の村、グレーに移っています。その前、1888年にグレーを旅して、この地が気にいったので。
1890年は、明治二十三年の時で、黒田清輝は二十五歳。
黒田清輝はグレーで、マリア・ビヨーという少女を知り、仲良くなっています。ただ仲良くなっただけでなく、マリアをモデルに絵を描いてもいます。
今は、黒田清輝の代表作のひとつ、『読書』がそれであります。今は、「東京国立博物館」所蔵。
ホテルの一室で、赤いブラウスの少女が熱心に読書する風景が描かれています。『読書』では、部屋の鎧戸が下されていて、そこからの複雑微妙な光を、美事に描ききって、すでに達人の域に達しているようです。
ただ、『読書』の完成までにはずいぶんと時間がかかっています。黒田清輝は、マリアのブラウスの色が気にいらなかった。
黒田清輝は『読書』のために巴里に行き、生地を買い、それでブラウスを仕立てさせて、もう一度最初から描き直したと、伝えられています。
黒田清輝は、このマリアと結婚を考えていたそうです。1901年に帰国する折には、泣いて別れたとのこと。
黒田清輝の、巴里時代の写真を見ると、なぜかダブル・カラーが多い。たとえば、明治三十三年、巴里で友人八人と写した一葉が遺っています。このうちの七名が、シングル・カラー。黒田清輝ひとりが、ダブル・カラー。今の襟に似た、ソフト・カラーの、折襟になっています。当時のダブル・カラーは、最先端の流行でもあったでしょう。
黒田清輝は若い頃から、「私は藝術家」という想いがあったものと思われます。
黒田清輝倣って、少しはまともなカラーを着たいものです。

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