銀座とギャバジン

銀座は、東京都中央区にありますよね。
日本一の繁華街。
日本中には何十、何百の「銀座」があるのでしょうか。
これひとつ考えてみても銀座が特別であるのが、解りますね。
また、何十、何百とあるのが、銀座が出てくる歌謡曲。
まさに、枚挙に暇なし。
誰でも知っている銀座の歌に、『銀座の恋の物語』。
♪ 心の底まで しびれるような
たしか、そんなふうにはじまるんでしたね。
昭和三十六年の流行歌。
短くして「銀恋」だけでも通じるくらいに流行ったものであります。
『銀座の恋の物語』は、昭和三十五年十二月一日の、録音。日活撮影所で。
なぜ、録音が十二月一日だったのか。
石原裕次郎の結婚式前に済ませておきたかったから。
石原裕次郎は録音前に譜面を渡されて、十分間の練習。それで、録音したという。
今も、数寄屋橋公園には「銀恋」の歌碑が立っているのは、ご存じの通り。
銀座は歌の似合う街。そしてまた、美食の似合う街。
美食の名店、老舗がこれほどの密度で並んでいる街は、外にはありません。
ひとつの例ではありますが、「資生堂パーラー」。
「資生堂フルーツパーラー」は、昭和三年にはじまっています。
これは明治三十五年の「ソーダーファウンテン」の発展したもの。
少なくとも百年以上の歴史を持っているわけですね。
「資生堂パーラー」の「オムライス」が好きというお方も少なくないでしょう。
場合によっては祖母、母、娘の三代に渡って、通っている例も珍しくはありません。
「資生堂」そもそものはじまりは、明治五年のこと。
福原有信によって。
これは日本で最初の西洋式薬局だったのです。
大正十三年十一月三日には、「資生堂月報」を創刊。
その後もこれと平行して、「資生堂グラフ」や「花椿」などの雑誌を出しています。
大正時代、昭和のはじめに、「資生堂」がどんな商品を扱っていたのか。それがよく分かるのも、これらの雑誌によってなのです。
たとえば、1938年「花椿」第七号(五月一日号)に、
大田黒元雄が、「靴下」について書いています。

「同じく舶来の靴下は、例のモオレイの製品がたしか一打で十圓ぐらゐであつた、」

大田黒元雄はそのように書いています。
モーレーは当時あった英国のメイカー。「一打」が一ダースの意味であるのは、言うまでもないでしょう。
その時代にはダース単位で買うのが、常識だったので。
これは明治末期の靴下の値段についての貴重な記録でもあるでしょう。
資生堂が出てくるミステリに、『雨』があります。
1951年に、松本惠子がは発表した物語。

「肩を斜めにして種々雑多な人々を右によけ、左によけしながら資生堂の角を曲がって銀座裏へ出た。」

これは物語の主人公である「私」の行動について。
また、『雨』にはこんな描写も出てきます。

「ビスケット色のギャバディンの背広を着た二十五六の青年が、」

当時、ギャバディンgabadin は、一世風靡したものです。
どなたかビスケット色のギャバディン・スーツを仕立てて頂けませんでしょうか。