赤毛とアングルド・ポケット

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赤毛は、赤い髪のことですよね。それほど多いわけではありませんが。ヨオロッパ人の中には、燃えるような赤い髪の人がいたりするようですね。
レッド・ヘア。レッド・ヘッデッド。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物にも、『赤毛連盟』があります。ドイルが、
1891年に『ザ・ストランド・マガジン』8月号に発表した物語。店の主が、赤い髪で………………。
サマセット・モオムが1920年代に発表した短篇に、『赤毛』があります。

「レッドというのは燃えるような髪の色からついたあだ名だ。自然にウェーブした髪で、それを長髪にしていた。ラファエル前派の絵かきたちが夢中になったああいうすばらしい色だったに違いない。」

モオムは、『赤毛』の中に、そのように形容しているのですが。原題もまた、『レッド』になっています。
モオムの小説での「赤毛」は若い男性。赤髪の少女を描いた画家に、黒田清輝が。
1892年のことです。題は、『赤髪の少女』。現在は、「東京国立文化財団研究所」の所蔵になっているのですが。

「………四五日前より二人の大きな肖像画一枚相始申候……………………。」

黒田清輝はお父さんに宛てて、そんな内容の手紙を書いています。1892年10月7日付の
手紙に。
この頃の黒田清輝は巴里郊外の小さな村、グレーに滞在していたのですが。手紙もやはりグレーから投函されています。
黒田清輝は親切な人で、お父さんへの手紙は候文。お母さんへの手紙は、ほとんどひらかな文。まったく器用に使い分けています。
黒田清輝の『赤毛の少女』は大胆この上ない構図で。少女は後向き。森の中に立って背中を向けているのです。でも、樹々の緑と少女の赤毛とが美事なコントラストとなっています。
そもそも明治十七年に、どうして黒田清輝は巴里に行くことになったのか。
義兄の、橋口直右衛門が、巴里公使館勤務になったから。それに十九歳で、同行することになったのです。
明治十七年頃、巴里で、橋口直右衛門と一緒に写した写真が遺っています。
橋口直右衛門は、ハイ・ボタンのモーニング・コート姿。黒田清輝はダブルのラウンジ・スーツ。
橋口直右衛門のモーニングの胸ポケットは、「アングルド・ポケット」angl ed
p ock et になっているのですね。やや右上りに勾配の強い胸ポケットに。
まあ、そのほうがハンカチーフの出し入れが楽ですからね。
どなたかアングルド・ポケット付きのラウンジ・スーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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