ロオマとローデン

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ロオマは、イタリアの街ですよね。映画『ローマの休日』は広く知られているところでしょう。もちろん、オオドゥリイ・ヘップバーンの出世作であります。ヘップバーンのお美しいことと言ったら……………………。
ロオマにも大きく分けて、ふたつあります。古代ロオマと、近代ロオマと。
古代ロオマには、どんな人びとがいたのか。
たとえば、「アクシオテア」。美しい少女の名前であります。「プレイウス」という場所に住んでいたので、プレイウスのアクシオテアとも。
だいたい紀元前348年から紀元前344年くらいに生きた人物だと考えられています。
少女、アクシオテアのたったひとつの願いは、哲学を学ぶこと。ことに、プラトンについて学びたい、と。
古代ロオマの「アカデメイア」は、女人禁制。男子のみの学校。そこでアクシオテアは男の子になりすまして、入学。たったひとつの問題点は、胸のふくらみ。
アクシオテアが男の服を着ると凛々しい少年に。ただ、ひとつ問題だったのが、胸のふくらみ。
アクシオテアはサラシをキリリと巻いて、学校に。家を出る時、召使いに、巻いてもらう。そのうちひとりでもサラシを巻けるようになったという。
紀元前300年頃のロオマには、サラシ、もしくはサラシに似た生地があったものと思われます。
日本の「女剣戟」ではありませんが。胸にサラシを巻くやり方は、古代ロオマにもあったのでしょうね。
1817年に、ロオマを旅したお方に、スタンダールがいます。スタンダール著
『イタリア紀行』に詳しく出ています。

「女性は公式には教皇に会うことができない。」

スタンダールは、1817年3月20日。日曜日の「日記」に、そのように書いています。
では、どうするのか。
ロオマ教皇は、毎日曜日、ヴァチカン庭園を散歩なさる。その時、ヴァチカン庭園に居合わせたなら、教皇のお姿を拝見できる仕組みだった。少なくとも、スタンダールはそのように書いています。
それよりも前。1786年にロオマを訪れたのが、ゲエテ。

「チロルの山々は、いわば飛びこしてきた。ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パードヴァ、ヴェネツィアなどはよく見たが……………………。」

ゲエテ著『イタリア紀行』。1786年11月1日のところに、そのように出ています。
ゲエテはロオマに着いてはじめて旅の解放感を味わっているのですが。
ロオマが出てくる小説に、『モンテ・フェルモの丘の家』があります。イタリアの作家、
ナタリア・ギンズブルグが、1984年に発表した物語。この中に。

「昨日、ローマを発ったとき、エジストがきみたちからと言って、二人の名前を赤で書いた箱にはいった、小さなチーズを持ってきてくれた。」

ナタリアは、1916年7月14日。パレルモに生まれています。
また、『モンテ・フェルモの丘の家』には、こんな描写も。

「兄のグレイのローデン・コートを見たとき、ぼくは心からほっとした。」

ローデン l od en はもともとチロルの小さな村の名前。ここで織られていた生地の名前に、はじまっています。
ローデンはあまりにも密な織り方なので、当時はレイン・コートとして着用されたものです。
どなたか本物のローデン・コートを仕立てて頂けませんでしょうか。

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