ダンディは、洒落者のことですよね。
ダンディは、美食家というときの「グルメ」と似ているのではないでしょうか。
誰も自分から、「私はグルメです」とは言わないように。「私はダンディです」と宣言する人に会ったことはありません。
グルメは、「味を極める人」。ダンディは、「服の味を見極める人」。その意味でも少し似ているのかも知れませんが。
故き佳き時代に、ダンディだってお方に、大田黒元雄がいます。大田黒元雄は、明治二十六年一月十一日。東京に生まれています。お父さんの大田黒重五郎は富豪でありました。大田黒元雄は、1979年1月23日に、八十六様で世を去るまで、一度も勤めることのなかった人物でもあります。
もし大田黒元雄をひと言で説明するなら、音楽評論家。それも日本人としては、音楽評論家の第一号であったでしょう。
大田黒元雄は多くの音楽評論の書を遺しています。その一方で、『おしゃれ紳士』のような、まさにダンディ評論とも言いたい本も書いています。『おしゃれ紳士』を読むと、大田黒元雄が並のダンディではなかったことがよく分かります。
たとえば、作曲家の團伊玖磨なども、大田黒元雄の薫陶を受けたひとりかと思われます。音楽の面でも服装の面でも。
大田黒元雄と親友だったのが、福原信辰。福原信辰は、明治二十五年、銀座に生まれています。
福原信辰のお兄さんが、福原信三。その昔、「資生堂」の社長であった人物。信三と信辰のお父さんが、福原有信。「資生堂」の創業者であります。
福原信辰は、「資生堂」の経営はお兄さんに任せて、自分は趣味に生きたお方だったのです。そのための名前が、「路草」。もちろん、「ろそう」と訓みます。
福原路草の趣味は何であったのか。写真。「写真機一台で一軒の家が買える」と言われた時代の、写真家だったのです。
福原路草は、大田黒元雄にも、また兄の福原信三にも呼びかけて、写真倶楽部を作っています。
福原信三は、明治十六年、銀座に生まれています。明治二十三年には、「泰明小学校」に入学。
明治四十一年には、アメリカに留学。「コロンビア大学」に学び、卒業。明治四十三年には、ニュウヨークの薬品店で働いてもいます。その後、ヨオロッパに遊んで、大正二年に帰国。
もともと薬屋であった「資生堂」に、化粧品を導いたのは、福原信三だったのです。大正五年のことでありました。
福原信三は、ダンディであったお方。明治四十一年。ニュウヨークに着いたばかりの福原信三の写真を見ると。ダブル・カラアのシャツを着ています。
明治四十一年は、西暦の1908年のことで、いうまでもなくハード・カラアの時代。1908年のダブル・カラアは新鮮でもあったでしょう。ダブル・カラアは、折襟、つまり今、私たちが着ているシャツにも似ているものです。
明治四十一年の、福原信三のダブル・カラアはもちろん、ディタッチト・カラアであったはず。での、その襟の形がとても美しい。左右の襟の間隔が狭く、上品、優雅。ネクタイの結び目はほんの少ししか見えていない。
ダンディならではの選択だと、深く、感心させられてしまいます。いtsの時代にも、数こそ少ないものの、ちゃんと居てくれるのですね。
Previous Post: アレクサンダーと赤シャツ
Next Post: コーヒーとコッドピース