アイドンとアイヴォリー

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アイドンは、ハイドンのことなんだそうです。
もちろん、偉大なる音楽家のフランツ・ヨーゼフ・ハイドン。
H a ydn と書いて、「ハイドン」と訓むわけです。でも、フランス式には、「アイドン」。
「H」の音がどこかで消えるんでしょう。
ハイドンは若きモオツアルトの才能を高く評価したと伝えられています。
1784年4月24日。モオツアルトがお父さんに宛てた手紙の中に、「ハイドン」のことが出てきます。つまり、少なくとも1784年には、ふたりは親密だったことが窺えるでしょう。
1784年にはハイドンが五十二歳。モオツアルトが、二十八歳だった計算になるのですが。
1790年。ハイドンとモオツアルトとの別れ。モオツアルトはハイドンのことをを、「パパ」よ呼んでいたらしい。
いよいよハイドンの乗った馬車が動き出す時。

「私は心配なんです。最後の別れを述べているみたいで!」

モオツアルトは涙を流して、そう言ったという。大宮真琴著『ハイドン』に出ている話なのですが。
モオツアルトの涙につられて、ハイドンもまた涙したんだそうです。

1790年にどうしてハイドンはモオツアルトに別れることになったのか。ロンドンでの演奏旅行に出かけるために。
英國から、ハイドンへのお招き。それはヴァイオリニストの、ヨハン・ペーター・ザロモンを介してのものでありました。ザロモンはロンドンでも演奏していましたので。
1790年12月15日。ハイドンとザロモンは、馬車でウイーンを出発。
1790年12月31日に、カレエに着いています。ここからは船でドーヴァー海峡を渡って。1791年1月2日に、ロンドン到着。この時のドーヴァー海峡は大荒れに荒れたと伝えられています。

「この町のさまざまな美観と不思議とはまったく私を驚かせました。」

1791年1月8日付の、手紙の中に、ハイドンはそのように書いています。
1792年6月にはロンドンを発って、帰国の途に。その途中のボンで、二十二歳の
ベートーヴェンに会っています。
ハイドンはロンドンがお気に召したみたいで、1794年にも、ロンドン再訪しているのです。

ハイドンが出てくる小説に、『さいごの恋』があります。フランス人作家、
クリスチャン・ガイイが、2004年に発表した創作。

「快調な出だしである。ハイドンの場合、いつだってうまくいく。みんなハイドンが好きなのだ。ハイドンもみんなのことが好きだ。」

『さいごの恋』は音楽家が主人公なので、当然のようにハイドンが出てくるわけですね。
もっとも舞台はパリですから実際には、「アイドン」であるのかも知れませんが。
『さいごの恋』には、こんな描写も出てきます。

「第一ヴァイオリンは象牙色のタキシードの上着を着ている。」

「象牙色」とは、「アイヴォリー」iv ory でしょうか。
アイヴォリーは、佳い色ですよね。上品で、気品があって。

「金縁の舶來象牙紙に活字も氣取つてコジック新型である。」

真山青果が、明治四十年に発表した『南小泉村』の一節に、そのように出ています。
真山青果は、「象牙紙」と書いて、「アイボレイ」のルビを添えているのですが。
これは、「阿刀田玄吉」という人物の名刺について。明治の頃には、アイヴォリー・ペイパーというのがあったのでしょうね。
それはともかくどなたかアイヴォリーのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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