スクリーンは、幕のことですよね。日本の屏風も英語にすれば、「スクリーン」になるんそうですが。
スクリーンもまた、おしゃれと無関係ではありません。たとえば、「シルク・スクリーン」。印刷方法のひとつ。一例ではありますが。スカーフの柄。あれもまた、たいていはシルク・スクリーンで仕上げられるのです。
仮に十色で表現される柄なら、十枚のシルク・スクリーンが用いられるのです。二十色なら、二十のシルク・スクリーンが。
これをきっかりずれることなく重ねるのですから、技というものでしょう。
イタリアのコモ湖周辺は、シルク・スクリーンのメッカとされています。エルメスの絵画を観るような美事なスカーフも、多くはコモ湖辺りで創られているとのことです。
スクリーンにはもうひとつの意味があって、「銀幕」。ひいては映画のことです。たしかに幕に映写するのが、映画ですからね。
「衣裳も顔も手も足も凡てが真つ白で、それを射徹す強い光線がスクリーンの面へ銀のやうに燃え上がるのだ。」
谷崎潤一郎が、大正十二年に発表した小説『アヴェ・マリア』にそんな文章が出てきます。
これは当時の横濱の「ゲイテイ座」でのこと。ゲイテイ座は昔、横濱の山手にあった劇場。横濱は幕末に開港。その異人たちの愉しみのために作られて劇場のことなんですね。
スクリーンが出てくる物語に、『叡智の断片』があります。2007年に、池澤夏樹が発表した読物。単なる小説ではありません。池澤夏樹の「警句集」になっています。
「だが、スクリーンであそこまで素晴らしい女も他にはいない。ガルボだってとてもかなわない」
これは、マリリン・モンロオに対する、ビリー・ワイルダーの言葉として。
また、ビリー・ワイルダーはこうも言っています。
「あれはハリウッドのジャンヌ・ダルク」
「あれ」がモンロオを指しているのは、言うまでもありません。
さらに、『叡智の断片』を読と。
「血もしたたる羊肉を無視して、毛糸でセーターを編んでいる姿はもっとおかしい。」
手編みのスェーターは、力の入れ具合が調整できます。好みによって堅くも編めるし、柔らかくも編めるのです。
どなたか風を通さないスェーターを編んで頂けませんでしょうか。