ボヘミアンとボウラー

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ボヘミアンは、自由民のことですよね。Bohemian と書いて「ボヘミアン」と訓みます。そもそもはチェコの「ボヘミア」から出た言葉なんだそうですが。
1960年代の大阪に、「ボヘミアン」という洋品店がありました。まだ十代だった私にとっての憧れの店でもありました。
戦後の大阪でヴァイキュウナの外套をもっとも多く扱ったのは、ボヘミアン。そんな噂を耳にしたものです。
外套はもちろん注文服。その一方で、ボヘミアンならではの凝りに凝ったネクタイなども並べてあったものです。

ボヘミアンが出てくる紀行文に、『ヨーロッパ紀行』があります。阿部知二の随筆。阿部知二は「日本ペンクラブ」の代表として、ヨーロッパに出向いていますから、その時の記録として。昭和二十五年のこと。阿部知二が、四十七歳の時のことです。

「このあたり、街路にカフェに、思い思いのボヘミアンな服装の男女学生たちが、まだ夏の休も終っていなかったが、そぞろ歩きし、珈琲をのみ、たわむれている。」

これは当時の巴里での見聞として。
ボヘミアンから生まれた日本語に、「ボヘミアンネクタイ」があります。その昔、巴里の藝術家が愛用した床のから、その名前があります。若き日の永井荷風なども、ボヘミアンネクタイの愛用者だったものです。

ボヘミアンネクタイを詠んだお方に、久保田万太郎がいます。

ボヘミアン ネクタイ若葉 さわやかに

久保田万太郎の時代にもボヘミアンネクタイは流行中だったのでしょう。
大正五年頃、久保田万太郎は、島崎藤村にあっています。島崎藤村がフランスから帰ったばかりの時に。

「そのとき、この作者は、黒い外套を着、白い足袋を穿き、そして山高帽子をかぶつて来られた。」

久保田万太郎は、『山高帽子』と題する随筆に、そのように書いています。
これは久保田万太郎が島崎藤村を、築地の「八尾善」に招待した時の話として。
大正五年に、島崎藤村は着物のボウラーをかぶっていたのでしょう。
どなたか和服にも似合うボウラーを作って頂けませんでしょうか。

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