モオパッサンとモスリン

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モオパッサンは、フランシスの作家ですよね。もちろん、ギイ・ド・モオパッサンのことであります。
モオパッサンの代表作は、『脂肪の塊』でしょうか。
『脂肪の塊』は、1880年の発表。モオパッサン、三十歳の時のこと。『脂肪の塊』から、モオパッサンの文名が高められてゆくのですね。
モオパッサンがお好きだったものに、舟があります。釣りが好きで、川が好きで、海が好きでしたから、舟も当然のことであったでしょう。
モオパッサンは二十歳くらいで、自分用の漁船を作らせています。ルーアンで作った「エトルタ号」です。エトルタはモオパッサンにとっての故郷だった場所のこと。これを手始めとして、モオパッサンと舟とは生涯縁の切れることがありませんでした。
1872年に、海軍省に入っています。が、それでも夜や休み時間には舟で過ごすほどだったという。
余談ではありますが。その頃の巴里の散髪代は、六十サンチームほどであったらしい。これはギイが、お母さんに宛てた手紙に出ています。
また、服の修理代が、三フラン五十サンチームだったとも書いています。
モオパッサンはその時代から、舟に乗る時はいつも船員のような恰好をしていたそうです。水兵の着るような横縞のジャージーを平気で着ていたそうです。下のズボンももちろん、水兵ズボンで。

モオパッサンが出てくる『日記』に、『ゴンクール日記』があります。

「モーパッサンが馬車でルーアン駅まで出迎えに来てくれており、やっとフロベール家に着くと………」

これは1880年3月28日(日曜日)の日記に出ています。これはフロベエルの招待を受けてのこと。
モオパッサンは毎日曜日、フロベエルの家に勉強に出かけていたのですね。
『ゴンクール日記』には、興味深い内容がたくさん含まれています。たとえば。

「………一連のデッサンを何枚かの薄絹の布地の上に即興的に描いた。」

1878年10月31日(木曜日)に、そんな記述があります。
これは巴里の「松方正義」邸での食事の様子。日本の墨絵画家の実演として。
原文には、「モスリーヌ.」とあります。おそらく絹モスリンのことでしょう。
どなたか絹モスリンでシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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