歌劇と開襟

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歌劇は、オペラのことですよね。音楽もあり演劇もあるので、「歌劇」。
昔の日本人はオペラはなんとか日本語にしようとして、「歌劇」を思いついたのでしょう。

「序はルスチンゲン、ワーベル歌劇の「プロゝオグ」以て始まれり。」

島崎藤村は、明治三十四年に発表した『落梅集』の中に、そのように書いてあります。これはその頃、上野の音楽堂でオペラを鑑賞した時の印象として。
島崎藤村の『落梅集』は。

小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ

こんなふうにはじまるあまりに有名な詩を含む作品集。韻文もあれば散文もある内容になっています。
歌劇が出てくる随筆に、『モーツアルト歌劇の意味』があります。昭和四十一年に、大岡昇平が発表した文章。

「少なくともモーツアルトのオペラは、同じものを二度聞かないと気がすまないので、自然ほれた女に「入れあげる」ような調子になってしまうのである。」

「ベルリン・オペラが来ると、私の生活は狂ってしまう。」

大岡昇平はそうも書いてあります。
その頃の大岡昇平は大磯住まいで、その度に東京に足を運ぶことになるので。
よほどモオツアルトがお好きだったのでしょう。これはひとつには、小林秀雄の影響もあったのかも知れませんが。
大岡昇平には、『野火』をはじめ、優れた小説がたくさんあります。でも、大岡昇平の随筆にも多く惹きつけるものがあるのです。
たとえば、その昔、澁谷に水車があった話だとか。これは大岡昇平が、昭和三十七年に発表した『川端稲荷』に出てくる話。

「澁谷駅の北のガードは踏切で、澁谷川のすぐ下に堰があり、水車が回っていた。」

大岡昇平が六歳頃の記憶として。明治末期から、大正のはじめ頃のことなのでしょう。

「稲荷の隣は肉屋であり、向い側は米屋と茶屋であった。」

そのようにも書いてあります。
澁谷駅のすぐ側に、川端稲荷があったらしい。大岡昇平の家は、その米屋と茶屋の間を入った、奥の平屋だったという。

大岡昇平が昭和三十年に書いた随筆に、『巴里の酢豆腐』があります。これは北大路魯山人が、巴里の「トゥールダルジャン」に行った時の話が中心になっているもの。
大岡昇平はその時、巴里で魯山人に会っているのですから、ここでの話はほんとうなのでしょう。

「魯山人はやおら風呂敷包みをひろげて出したのは、醤油とわさびだった。」

つまり魯山人はトゥールダルジャンの鴨を、わさび醤油で召しあがったんですね。
この時の魯山人の食事には、画家の荻須高徳が一緒で。
トゥールダルジャンでは、まず最初に料理する前の鴨を見せてくれる。「○○番目の鴨です」と説明してくれる。
「この鴨の腹身を切って持って来てくれ。」と、魯山人は言った。
困ったのは、店の人。それはいわば「見せ鴨」で、実際に料理する鴨川とは別物。
そこで荻須高徳は、言った。「この方は東京の一流料理店の主人だ」と。魯山人は以前、「星ケ岡茶寮」の主人でもありましたから、まんざらのウソでもありません。
結局、魯山人は味つけする前の鴨をわさび醤油で頂いたわけであります。
大岡昇平が、『巴里の酢豆腐』と名づけたのも、わからないでもありませんが。

大岡昇平は1962年に招かれてロシアに旅しています。

「三時半、ナホトカ入港。前日午後八時、暮れかかる松前湾頭の小島を右舷にやり過ごして十八時間、北日本海を渡ったのである。」

大岡昇平の紀行文に、そのように出ています。
また、七月四日には、ソチでの野外劇場の体験も。

「楽士みな開襟シャツにサンダル穿きなのは、避暑地的でよし。」

大岡昇平は、そのように書いています。もちろん、「レニングラード管弦楽団」の服装として。
どなたか野外コンサートにふさわしい開襟シャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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