コクトオは、ジャン・コクトオのことですよね。
フランスの詩人であります。ただ、詩人の枠を越えて、作家、戯曲家、画家などとしても活躍したお方でもありましたが。
ジャン・コクトオは1889年7月5日、巴里郊外に生まれています。1889年は日本の明治二十二年にあたります
日本の作家ですと、内田百間が明治二十二年五月二十九日、岡山市に於いて、誕生。
つまりコクトオと百間は同い年だったわけですね。コクトオが七十四歳で世を去ったのは、1962年10月11日のこと。
これは友人でもあった、シャンソン歌手のエディット・ピアフの死去の報せを受けて。
ピアフは1962年10月10日に、人生の幕を閉じています。
当然のように、記者たちはコクトオの感想を聞こうとして、電話をかけて。その時のコクトオの返事は。
「エディット・ピアフの死で、また息をするのが苦しくなりました。午後にでもこちらにお出でください。」
これがコクトオの最期の言葉になったのです。
七十四年の人生でありました。
ジャン・コクトオから連想する天才に、ラディゲがいます。もちろん、レエモン・ラディゲです。
レエモン・ラディゲの優れた才能を発見したのが、コクトオであったのは、間違いないでしょう。
ラディゲがはじめてコクトオに会ったのは、1919年のことであるという。
ラディゲは1903年6月18日。巴里で生まれています。つまり、1919年には、十五歳だったわけですね。
ラディゲをコクトオに紹介したのは、やはり詩人の、マックス・ジャコブ。
実はジャコブはコクトオに紹介です前に、アポリネールに、ラディゲを引き合わせています。が、アポリネールはラディゲの詩を見て、盗作だと思った。こんな少年にこんな卓越の詩が創れるはずがない、と。
そこでジャコブは折を見て、コクトオを呼んだのです。つまり、コクトオとラディゲは、ジャコブの自宅で会っているのです。
ラディゲにはやくから注目していた作家に、三島由紀夫がいます。
三島由紀夫は1953年に、『ラディゲの死』と題する短篇を発表。この中に。
「磨きだされた貝殻やうだ」とコクトオは思つた。
そんな文章が出てきます。コクトオがはじめてラディゲの詩を読んだ印象として。
ラディゲはもちろん、それから詩人として出発するのですが。後には、小説をも。
『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』があるのは、ご存じの通り。
『肉体の悪魔』は1923年の処女作。『ドルジェル伯の舞踏会』は、1923年の遺作。
ラディゲは1923年12月12日に、二十歳で世を去っているので。
「天才は夭逝する」の言葉通りの人生であったわけですね。
ラディゲが十九歳で書いた『肉体の悪魔』と、『ドルジェル伯の舞踏会』は、今もフランス文学の必読書になっているのですが。
1930年頃に写されたコクトオの一枚の写真があります。それはグレイのソフト帽をかぶり、ダブル前のチェスターフィールド・コオトを着た姿になっています。
そのチェスターフィールド・コオトには、ビロードの襟が付き、胸ポケットもついています。
ビロード襟。フランスなら、「コル・ヴェルール」でしょうか。
どなたかコル・ヴェルールのチェスターフィールド・コオトを仕立てて頂けませんでしょうか。