シューベルトは、人の名前にもありますよね。たとえば、作曲家のフランツ・シューベルトだとか。
フランツ・シューベルトは1797年1月31日、午後1時30分に、オーストリアのウイーンに生まれています。
お父さんのフランツもまた、音楽教師だったそうです。
シューベルトは1803年、六歳の時からお父さんにヴァイイリンの手ほどきを受けています。また、お兄さんのフェルディナントからはピアノを教えてもらったとのことです。
1910年、十三歳の時から、作曲の勉強を。1814年、十七歳の時には、『糸を紡ぐグレートヒェン』を作曲しています。
フランツ・シューベルトが心から尊敬していた音楽家が、ベートーヴェン。
シューベルトが実はベートーヴェンに会ったことがある。そんな一説もあるのですが。
1822年に、楽譜出版者のディアベリの紹介で。1822年はシューベルト二十五歳、ベートーヴェン五十二歳のことになります。五十二歳のベートーヴェンは晩年で、耳が不自由になっていたそうですが。
シューベルトが自作の譜面を見せると。ベートーヴェンはささやかな書き間違えを指摘して、シューベルトは顔を赤らめた。そんな話も伝わっているのですが。
シューベルトがお好きだった画家に、谷内六郎がいます。谷内六郎は、いつも叙情的な、詩のような絵を描いた谷内六郎。
1965年「週間新潮」6月12日号の表紙に、「野原の小川は、シューベルト、木立のこずえは、モーツアルト、」。そんな詩を書いています。もちろん絵の説明にもなっているのですが。
谷内六郎が「週間新潮」の表紙に絵を描くようになったのは、1956年2月19日の創刊号から。
では、なぜ、谷内六郎は表紙の絵を描くようになったのか。これはもともと小説の挿絵がきっかけになっているのですね。
「週間新潮」創刊号には、当時人気のあった中村武志の『目白三平の逃亡』が載る予定になっていて。その小説の挿絵を描いたのが、谷内六郎。編集者はこの絵を見て。「うん、これはいい」となって、表紙にも。
でも、谷内六郎は最初その話があった時、断っています。健康に自信がないので。谷内六郎には、喘息の持病があったのです。
それに対して編集者は言った。「一回でも二回でいいですから描いて下さい」。
谷内六郎には未発表の絵がたくさんあって、いよいよの時にはそれを使うつもりになっていたようです。
谷内六郎のお好きな食べ物は、目刺。これは人気作家になっても変わることがなかったそうですが。
ただし、もうひとつお好きなものがあって、釜めし。横川の「峠の釜めし」。
「峠の釜めし」は、昭和三十三年にはじまっています。その頃の谷内六郎は、「峠の釜めし」を食べるために、横川に旅しています。谷内六郎は食べた後の器を持ち帰って。自分で料理したとも伝えられています。
谷内六郎には、「アイデア帽」があったという。その帽子をかぶると、アイデアが出てくるので、アイデア帽。
それは赤い毛糸で編んだ帽子。今でいうスキー帽にも似ています。
言い替えるなら、「正ちゃん帽」。
「正ちゃん帽」は、漫画から生まれた帽子なのです。
大正末期から昭和のはじめにかけて連載された漫画『正チャンのバウケン』の主人公、正チャンがかぶっていたので。
作者は、樺山勝一。当時の「日刊アサヒグラフ」に連載された人気漫画だったのです。
どなたか赤い正ちゃん帽を編んで頂けませんでしょうか。