ジュネーヴはスイスの美しい町ですよね。チューリッヒに次ぐスイス第二の都市なんだそうです。
その昔、「國際連盟」が置かれていたパレ・デ・ナシオンは、今「国連ヨオロッパ本部」になっています。
日本が当時の國際連盟を脱退したのは、昭和八年二月二十四日のこと。日本の全権大使、松岡洋右の時代でありました。
「私がジュネーブに向って出発するに当り、徳富蘇峰先生から松陰先生の書かれた碑文の石摺りをいただいたが」
松岡洋右は『松岡洋右縦横談』と題して、「文藝春秋」八月号に、そのように書いてあります。
同じく「文藝春秋」十月号に、相馬 仁が『ジュネーヴの機密室』と題する論文の中に次のように書いています。
「声をふるわせ挨拶をしている。見れば帝国全権松岡洋右が泣いている。」
これは昭和七年、松岡全権が敦賀港を出る「天草丸」の甲板での様子として。
見送り人たちに応えて、松岡洋右が涙を流していた、と。
大正十一年に、ジュネーヴを旅したお方に、柳田國男がいます。
「いくら小さなスイスでも端から端まで一週間には歩かれません。しかし、もうそろそろジェネバにかへります。」
柳田國男は大正十一年十一月十九日、柳田孝子宛ての手紙に、そのように書いてあります。
「私はかつて瑞西の博物館で四つのカラクリ人形を見た。一人は畫を描き、一人は楽器を鳴らし、一人は縫物をし、一人は字を書く、何れも十七世紀につくられたゼンマイ仕掛けの人形であるが、見物人の好むまゝに色々の異つた文字を書くさうだ。」
柳田國男は『瑞西の鐘と時計』と題する随筆の中に、そのように書いています。
昭和九年にスイスを旅した画家に、東山魁夷がいます。その折の紀行文『スイス』を読んでおりますと。
「雲は次第に流れ行って、モンブランの全容が眼の前に現れる。豪荘という観念がそのまま具象された感じ。」
そのような一文が出てきます。
ジュネーヴが出てくる小説に、『ルージン・ディフェンス』があります。1930年に、ナボコフが発表した物語。これはチェスの名人を主役にした内容になっているのですが。この小説の中に服を仕立てる場面も出てきます。
「仕立屋はチョークをルージンの肩や背中に走らせたり、口から自然に生えてくるように見えるピンを驚くべき巧みさで引き抜いては、ルージンに突き刺したりした。」
ルージンはここではスーツの外に、イヴニング・ドレスなども仕立てているのですが。
また、『ルージン・ディフェンス』には、ルージンが子供の頃の服装についても。
「羊革の帽子を手にし、その天辺のなくてはならない溝を手で型押ししたが、父は息子に微笑みかけた。
「なくてはならない溝」。これはたぶんセンター・クリースのことかと思われます。
ここでの「羊革」は、シープスキンのことでしょう。シープスキンの帽子。
どなたかシープスキンの帽子を作って頂けませんでしょうか。