ウイスキイとウインド・ジャケット

ウイスキイは、スコットランドの名産ですよね。
今は世界中で愛飲されていること、言うまでもありません。
ウイスキイはどんなふうにして飲むのか。たとえば、オン・ザ・ロックスで。私には生(き)のウイスキイは強すぎるので。
ではウイスキイのお供はどうするのか。これも一例ですが、レーズンバター。
ウイスキイをひと口飲んで、レーズンバターを。至福のひと刻であります。ウイスキイにレーズンバター。ただし、際限がなくなってしまうのですが。

「みんな贅沢になつて行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホヰスキーだのと云つて……」

夏目漱石が明治四十年に発表した小説『虞美人草』に、そんな一節が出てきます。ある老人の言葉として。
夏目漱石は「ホヰスキー」と書いてあるのですが。
明治の時代にはウイスキイが贅沢品だったのでしょうね。
でも、時に学生が飲むこともあった。そんなふうに想像できる文章であります。

「しまいには、私は飲まないで香りだけで当てることができるようになった。ホワイトホースなどの男性的な漆喰の匂いがするところに特徴がある。」

作家の山口 瞳は1966年に発表した随筆『ポケットの穴』の中に、そのように書いてあります。
山口 瞳のウイスキイの飲み方は、ストレイト。ストレイト以外のウイスキイは飲まない。
少し気をつけて飲んでいるうちに、その銘柄が分かるようになって。さらには、その匂いだけで銘柄が分かるようになった。そんなふうに書いているのですね。
ウイスキイは嗜好品で、趣味に徹すれば、香りだけで銘柄を当てられるようにもなるのでしょう。

「その時以来、私は銀座のルパンだけでウイスキーを飲むことにした。ニッカ、キング、トミーモルト、サントリーのどれかで、安心して飲んでいたが、その時から私にとって酒は必需品となった。」

坂口安吾は1947年の随筆『ちかごろの酒』の中で、そんなことを書いています。
「その時以来」とは、友人が戦争中の合成酒に倒れてから。
戦争中は怪しげな合成ウイスキイが出回っていたものと思われます。
それはともかく、当時は「キング」とか「トミーモルト」などの銘柄もあったのでしょうね。

「汽車は未だ東京駅を出ないのであるが、窓際に並べたサントリーの壜の一本は、もう三分の一ほど減っていた。」

小林秀雄は1950年に発表した随筆『酔漢』に、そのように書いています。
これは夜汽車の中での話として。小林秀雄は、友人の河上徹太郎と二人で、岩国に向かうところ。岩国は河上徹太郎の故郷なので。当時は岩国までざっと二十時間かかったらしい。
夜汽車にウイスキイはふさわしい。飲んで、酔って、後は寝てれば良いのですから。
でも、東京駅を出る前にあらかた空いているようでは、この先が思い遣られるのですが。
ウイスキイが出てくる日記に、大佛次郎の『終戦日記』があります。

「小林秀雄の家でウイスキをのんだ帰り途、まだ宵の口なるに暗い中で何者とも知らず不意と顔をなぐられ眼鏡を失くすと。」

昭和十九年十二月十六日の『日記』に、そのように出ています。
これは、里見 とんの話として。
大佛次郎は「ウイスキ」と書いてあるのですが。
また、『終戦日記』には、こんな話も出てきます。

「満州へ行っていた香西昇が昨日帰って来たといいウインドジャケットに鉄兜を背負、ひょっくり顔を出す。」

昭和二十年三月四日の『日記』に、そんなふうに書いています。
昭和二十年三月四日は、戦争末期。そこに「ウインドジャケット」とは。驚いてしまうばかりですが。
どなたか現代版のウインド・ジャケットを仕立てて頂けませんでしょうか。