カルロとカスク・コロニアル

カルロは、人の名前にもありますよね。
たとえば、カルロ・コルロコーディだとか。
カルロ・コルローディは、イタリアの作家。児童文学の作家。
あの『ピノッキオ』の作者であります。
『ピノッキオ』が発表されたのは、1881年のこと。今からざっと百五十年ほど前のことになるでしょうか。
「ピノッキオ」の名前は、「ピノ」と関係があります。
「ピノ」pino はイタリア語で、「松」の意味。
松の木で作られた操り人形なので、「ピノッキオ」なんですね。
カルロ・コルローディは、1826年11月24日。イタリアのフィレンツェに生まれています。
本名はカルロ・ロレンツィー二。
お母さんの出身地、コルローディ村に因んで、「コルローディ」を筆名にしたという。
カルロ・コルローディが童話に興味を持つようになったのは、1872年頃のこと。
ペローの童話をイタリア語に翻訳するようになってから。
『ピノッキオ』は大正九年に、日本語訳がなされています。
西村アヤによって。西村アヤは明治四十一年の生まれですから、十二歳の時のことです。
これはお父さんの西村伊作が、いつも幼いアヤに読んで聞かせていたから。
いつの間にか覚えてしまっていたのでしょうね。
そもそもの『ピノッキオの冒険』は、1881年の連載にはじまっているとのこと。
週刊誌『ジョルナール・ペル・イ・バンビーニ』七月七日号から。
その連載第六号の結末は、こんなふうに。

「ぶるんと一つ身ぶるいしたかと思うと、そのままかたくなって、うごかなくなりました。」

作者のカルロは、これを物語のおしまいにしようと考えていたのです。
ところが。読者の少年少女からたくさんの投書がありまして。「ピノッキオをもっと続けて! 」。
その結果、『ピノッキオ』は、第三十六話まで続けられたという。
結局、最後にはピノッキオが人間になって、ハッピーエンド。

カルロが出てくる自伝に、『或る戦後』があります。
1963年に、フランスの作家、ボーヴォワールが発表した伝記。
ただし物語の背景は1950年頃が中心になっているのですが。

「ジャ二コロの丘の酒場で私たちはカルロ・レーヴィと夕食を共にし、球戯をやった。」

これはロオマに旅した時の話として。「私たち」とあるのが、サルトルとボーヴォワールであるのは、いうまでもないでしょう。
また、『或る戦後』には、こんな描写も出てきます。

「しかるべくヘルメット帽をかぶってから、私たちはホテルのすぐ前の広場に立っている市場を一巡した。」

これは北アフリカでの旅のこと。
ここでの「ヘルメット帽」は、「カスク・コロニアル」
casqe colonial のことかと思われます。
いわゆる「防暑帽」。
英語なら、「ピス・ヘルメット」。
内側に断熱材が入っているので、涼しい帽子。
1950年頃の北アフリカで、サルトルがカスク・コロニアルをかぶったのは、まず間違いないでしょう。
どなたか1940年代のカスク・コロニアルを再現して頂けませんでしょうか。