紳士の脚衣
トラウザーズはズボンのことである。パンタロンとも、スラックスとも、パンツともいう。ドイツでは、「ホーゼ」 hose の言葉があるらしい。
完全なるスーツを着ていたとして、なにかの都合でトラウザーズを穿いていなかったとすれば、台無しである。逆に完全なるトラウザーズを穿いていて、シャツ一枚であったとしても、それほど無様ではない。なにはなくとも、まずはトラウザーズと考えてよいのではないか。
それほどに大切な「トラウザーズ」trousers の源がよく分かっていないのも、面白い。スコットランドでの細身の脚衣を「トゥルーズ」 trews と呼ぶ。また、アイルランドの民族衣装にも、「トラウズ」 trouse がある。スコットランドの「トゥルーズ」はアイルランドの「トラウズ」から来ているように思われる。そしてこれは「トラウザーズ」とも関係しているのではないだろうか。
「ジョン・クラークは時として、バックスキン・ブリーチーズの上に、トラウザーズを重ねることがあった。」
『OED』( オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー) によれば、これは比較的はやい「トラウザーズ」の使用例であるとのこと。
男たちはトラウザーズの以前にはたいていブリーチーズを穿いていたのだ。それは脚にフィットしたタイツ状の脚衣であったのだが。
紳士の脚衣であるブリーチーズがゆっくりとトラウザーズへと変ってゆくのは、1820年代のことと考えられている。しかし世界を広く眺めれば、それ以前にズボン形式がなかったわけでもない。
「彼らは革のズボンをはき、その他の衣類もまたすべて革製のものを用います。」
ヘロドトス著 松平千秋訳 『歴史』 の一節。ヘロドトスは紀元前五世紀頃の歴史家。「歴史の父」として有名な人物。
これはギリシアのクロイソス王がペルシャを攻めようとした時、賢者、サンダニスがそれを諌める場面での発言。
ペルシャでは「革のズボン」を穿いている。ということは古代ギリシアでは、ズボンではなかったのだ。それはともかく当時のギリシアから眺めての「ズボン」は、「未開」にも近い印象があったものと思われる。
「野蛮」であったかどうかはさておき、「ズボン」が寒い地域での乗馬に適していたことは、想像に難くない。つまり寒冷地の騎馬民族からズボンがはじまったのではないだろうか。この調子ではいつ終わるとも知れない。少し先を急ぐとしよう。
「1807年、夏のブライトンでは、ナンキーン・トラウザーズを穿くのが、なによりの流行であった。」
ウイレット・カニントン、フィリス・カニントン共著『十九世紀英国衣裳』 (1959年刊 )には、そのように出ている。ブライトンはイングランド南部の避暑地。今も昔も海水浴場のあるリゾート地である。「ナンキーン」は縞柄のコットン地。リゾート・ウエアの一種として、トラウザーズが穿かれたのであろう。
リゾート・ウエアのトラウザーズがやがてタウン・ウエアとしても使われるようになるのは、1817年頃のことであるらしい。
「トラウザーズは一般にゆったりとして長いもので、裾口をストラップ無しで穿く。そして上部はブレイシーズで吊って穿くのである。」
1855年『ザ・ジェントルマンズ・マガジン・オブ・ファッションズ』には、そのように解説されている。ブリーチーズからトラウザーズへの移行期には、裾口をストラップで留めることが少なくなかったのだ。
「トラウザーズの脇ポケットは一般的ではない。その代りに半円形のフロント・ポケットがつけられる。これはトラウザーズがフィットしていても手が入れやすいからである。」
1866年『ウエストエンド・ガゼット・オブ・ファッションズ』誌4月号の一節。つまり1860年代以前のトラウザーズにはポケットがなかったと考えて良いだろう。
1890年代に写された英国皇太子の写真を見ると、ラウンジ・スーツ姿になっている。もちろん、後のエドワード七世である。ラウンジ・スーツの下のトラウザーズにはクリースもカフもつけられていない。
ただ、クリースがエドワード七世によって発明されたのは、よく知られているところ。そしてまた、「トップ・プリーツ」もエドワード七世の考案であったという。トラウザーズ上部の襞のことである。
「腹部をすっきり見せるために、トラウザーズのプリーツは必要なものである。」
ハーディ・エイミス著『ファッションのABC』 にはそのように書かれている。