旅に出るのは、愉しいものですね。ことに旅支度ほど、心ウキウキするものはありません。
旅は英語なら、トラヴェル travel でしょうか。この「トラヴェル」の元の言葉は、「トラヴェイル」 travail なんだそうです。トラヴェイルは、「苦難」。今のように交通手段が発達する以前の旅は、苦難だったのでしょうね。トラヴェルは、フランス語の「トラヴァイユ」とも関係があるんだそうですが。
昔の旅は苦難の道。だからこそ、心が鍛えられることもあったのでしょうか。才ある人が旅にでると、なにかが生まれる。たとえば、『奥の細道』。もちろん、芭蕉。芭蕉は曾良と一緒に北をめざして、句を詠んだ。それが『奥の細道』なんですね。
旅からはなにかが生まれることも。これもまた、ひとつの例ではありますが、モオム。サマセット・モオムも実によく旅に出ています。中国、ロシアはもちろん、アジア、南海の奥地にまで足を伸ばしています。中国の旅からは、『中国の屏風』が生まれています。ロシアでは『アシェンデン』が生まれています。南海への旅からは、『雨』をはじめとして、多くの名作が生まれています。
「旅の連れには、何か読物を持っていてもらいたい。」
そんな意味のことを、言っています。モオムは旅の途中、本を読んだ。相手がいる場合、自分だけが本に夢中になるのは、失礼だと思ったのでしょう。
各駅停車の列車で、あるいはまた船旅で本をひろげるのも、愉しいものです。では、旅にはどの本を持って行くのか。セイヤーズ。ドロシー・L・セイヤーズ。もちろん、好みの問題ですがね。
ドロシー・L・セイヤーズの、『学寮祭の夜』。長篇。ドロシー・L・セイヤーズの中での、最大の長篇。一週間くらいの旅ではたぶん読み終えることがないでしょう。この『学寮祭の夜』は、オックスフォード大学が背景になっています。これを読み終えると、オックスフォード大学へ行った気分になれるでしょう。この中に。
「小さな札のついたシャツの裾が、締めつけているズボンの腰バンドの上から兎のように覗いた。」
これは、スリープ博士の観察。『学寮祭の夜』は、1935年の発表。つまり時代背景は、1930年代ということになります。
1930年代のオックスフォード大学の教授は、ドレス・シャツを着て教壇に立ったのでしょう。「小さな札」は、タブのことかと思われます。イカ胸の下に、小さなタブがありますね。あれは昔、ズボンの裏にあったループに留めておいて名残りなのです。あのタブをループに留めることで、イカ胸をピンと張らせておいたのですね。