死語というのがありますよね。言葉もまた人間と同じように死ぬことがあるのでしょう。
英語にもやはり「デッド・ランゲージ」の表現があるんだそうですが。
では、「死語」と「廃語」は、どんな風に違うのか、違わないのか。たとえば。廃語は、「今はほとんど用いられない言葉」。死語は、「今はまったく用いられない言葉」。そんな風にも言えるのかも知れませんね。
ひとつの例として、「活動」。活動写真。もちろん現在の映画のこと。明治の頃には、「活動写真」。これを略して、活動。ですから、「活動弁士」と言ったもの。約めて、「活弁」。写真が活動するから、活動写真。うまい言葉を考えたものですね。
大正十二年に、関東大震災。関東大震災の後には、活動写真に代って、「シネマ」。昭和四年の流行歌に、「東京行進曲」。これは同名の映画の主題歌。作詞は、西条八十。作曲、中山晋平。
♬ シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で逃げましょか
昭和四年には、「シネマ」がハイカラだったのでしょう。あ、そうか。「ハイカラ」も、もはや死語に近いのかも知れませんが。
死語が出てくるミステリに、『風の影』があります。2001年に、カルロス・ルイス・サフォンが発表したミステリ。
「ラテン語だよ、小僧っ子。死語なんてもんはない。頭がなまけて眠っているだけだ。」
グスタボ・バルセロという古書店主の科白。「キッド・プロ・クオ」とバルセロが発した言葉について。ラテン語で、「ギヴ・アンド・テイク」に近い表現であるらしい。では、バルセロはどんな恰好をしているのか。
「いつ見ても十九世紀ダンディーの装いで、薄絹のネッカチーフを首に巻き、白いエナメル靴をはいて……………」。
それがエナメルであるかどうかはさておき。白い靴は一度、履いてみたいものです。いや、白靴を履いてさえ気障でなければ、ダンディと言って良いでしょう。
「白靴」は、どうか死語にしないでください。