タアブルは、テイブルのことですよね。つまりは、食卓。t ab l e。
フランス風なのか、イギリス風なのか、日本式なのかの、違いなのでしょう。
日本ではテイブルの前、多くちゃぶ台でありました。ちゃぶ台はたいてい丸く、脚が畳めて。ひっくり返すことも不可能ではありません。「ちゃぶ台をひっくり返す」の形容は、今でも活きているのではないでしょうか。
夏目漱石の『坊ちゃん』を読んでいますと。
「黑い皮で張つた椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周圍に並んで一寸神田の西洋料理屋位な格だ。」
もちろん、松山の学校の会議室の様子。『坊ちゃん』は、明治三十九年の発表。ここから考えて、明治三十年代の神田には、西洋式にテイブルを置く食堂が少なくはなかったのでしょう。
夏目漱石はその前、すでに倫敦で、テイブルでの食事を経験しているでしょうから、ごく自然に、「テーブル」と書いたものと思われます。
では、明治の前、幕末、慶應の時代には、どうであったのか。澁澤榮一の『航西日記』には。
「毎朝七時頃乘組の旅客盥漱の濟しころターブルにて茶を呑しむ茶中必雪糖を和しパン菓子を出す…………。」
これは慶應三年一月のこと。フランスに迎う船中の朝食。「ターブル」とあって、「餐盤なる」と説明を加えています。「餐盤」、たしかにその通りですよね。
慶應三年に、澁澤榮一一行というより、徳川昭武を主とする一行の、フランス行きでの話。この年、徳川慶喜はナポレオン三世から、巴里万博に招かれて。その代理として、弟君、昭武を送った。もちろん、徳川昭武のフランス留学の意味が大きくあったのでしょうが。その随員のひとりとして、若きの澁澤榮一がいたのです。
澁澤榮一は、『航西日記』とは別に、『巴里御館日記』をも書いています。『航西日記』が、主に船旅の様子であるのに対して、『巴里御在館日記』は、巴里に着いてからの日記が中心になっています。この中に。
「仕立屋ブウシ罷出御上着壹ッ御注文相成………………」。
三月八日の日記に、このように出ています。「ブウシ」は、ブーシェかと思われます。おそらく、フランス一流のタイユールだったと思われます。三月八日に注文した上着が、三月十二日には、もう届けられています。さらに、それまで徳川昭武が着ていた古い洋服は、「御払下」となっています。今の時代なら、「下取り」なんでしょうか。
それはともかく、幕末の徳川家は、フランスと密接だったようです。ナポレオン三世は、徳川慶喜にフランス製の軍服を贈っています。
弟君の、昭武は巴里で、ブーシェ仕立ての乗馬服などを着ているのですから。
巴里のタアブルにも美味いものがありますし、巴里のタイユールにも佳い服がありそうですよ。