モナコとモーターサイクル・ジャケット

モナコは、地中海に近い公国ですよね。モナコの人口はおよそ四万人ほどとのことです。
モナコには公認の賭博場があります。
昭和七年にモナコを旅した作家に、獅子文六がいます。獅子文六には、『ルウレットを廻りて』があるのは、そのためなのですね。

「けれども、モンテ・カルロほど明るい、眩しいほど明るい土地が、世界の何処にあるだろう。」

獅子文六は紀行文の中に、そのように書いてあります。まあ、冬の巴里から行ったのでは、たぶんそんなふうに感じることでしょう。

「たしかに、モナコ公国は、浅草公園より広い。」

獅子文六はそんなふうににも書いているのですが。
モナコで有名なものに、もうひとつ自動車レースがあります。いわゆる「モナコ・グランプリ」。1920年が第一回というのですから、古い。
「モナコ・グランプリ」の特徴は、ふだんの道がレース場になること。狭い道で、カーヴが多い。なにかと醍醐味あふれるレースであります。
日本でも公道を使ってのレースがなかったわけではありません。昭和二十八年の名古屋で。題して「名古屋TTレース」。ただし、オートバイでの競争だったのですが。
スタート地点は、名古屋の呼続(よびつぎ)大橋だったそうです。ただし、公道なので、法規を守ってのレースだったという。
金子延幸選手が、4時間17分55秒で、優勝したとのことです。
これは、富塚 清の『日本のオートバイの歴史』に出ている話なのですが。
富塚 清は明治二十六年、千葉県のお生まれ。大正七年に、東大の航空研究所の所員になっています。
当時の航空研究所には、インデアンやハーレーダビッドソンなどのバイクがたくさん置いてあって。たぶん小型エンジン研究のためだったのでしょう。
富塚 清はここでのインディアンをはじめ、バイク一筋の人生だったそうです。
1973年に、八十になって、バイクとは卒業。その間、各バイク・メイカーの顧問などもしていたという。
戦前戦後を通じて、日本のバイク事情に、もっとも詳しいお方が、富塚 清ではないでしょうか。
戦前に有名だったバイクに、「陸王」があるのは、ご存じの通り。日本での「陸王」は、アメリカのハーレー・ダビッドソンと大いに関係があるんだとか。
大正六年に、大倉商事がはじめて「陸王」を輸入。この「陸王」が好評なので、昭和六年に、販売会社が作られて。「ハーレーダビッドソン・モーターサイクル」がそれであります。
昭和八年には、北品川に工場が出来ています。これは国産化のためだったらしい。
昭和十年に、ハーレーダビッドソンの国産車が、完成。その国産車の名前が、「陸王」だったのですね。
当時、役員だったお方に、永井信二郎がいまして。慶應の卒業生。慶應の応援歌の歌詞に、「陸の王者慶應」と出てくる。ここから、「陸王」と名づけられたんだそうです。
昭和十二年には、側車付きの陸王が完成。これは1、200ccのエンジンで、主に軍用だったそうですが。
アメリカのウイスコンシン州でハーレーダビッドソンが生まれたのは、1902年頃のことだと考えられています。
ウイリアム・S・ハーレーと、アーサー・ダビッドソンの二人によって。ハーレーと、ダビッドソンは幼い頃からの親友だったそうです。
1903年のハーレーダビッドソンの生産、三台だったとのこと。たぶんすべてが手造りだったのでしょう。
ハーレーダビッドソンを乗る時、欠かせないのが、モーターサイクル・ジャケット。いわゆる「皮ジャン」ですね。「ブラックレザー・ジャケット」とも。
昔の飛行服から生まれた独特のスタイルになっています。
真冬、高速道路を100キロで走らせて、寒くないのが、本当のモーターサイクル・ジャケット。
どなたか完璧のモーターサイクル・ジャケットを作って頂けませんでしょうか。