フィッツジェラルドは、人の名前にもありますよね。ふつうFitzgerald と書いて「フィッツジェラルド」と訓むことが多いようですが。
たとえば、エラ・フィッツジェラルドだとか。エラ・フィッツジェラルドは偉大なジャズ歌手ですね。
エラ・フィッツジェラルドが1945年に歌った「イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーン」は、忘れ難いものがあります。
エラ・フィッツジェラルドは1917年4月25日、ヴァージニア州において誕生。
エラが歌手としてデヴュウするのは、1934年のことだったそうです。エラが十七歳の時に。
エラと関係があるのかどうか。小説家のスコット・フィッツジェラルドも忘れてはならないお方でしょう。
『ザ・グレイト・ギャッツビー』はたぶんお読みになっていることでしょう。また、何度か映画化もされていることですし。
スコット・フィッツジェラルドの奥さんだったのが、ゼルダ・フィッツジェラルド。
歴史に「もし」の言葉は使ってはいけないのでしょうが。もし、スコットとゼルダとが結婚していなかったなら。
たぶん、フィッツジェラルドの人生は大きく変っていたに違いありません。
スコットがゼルダに出会ったのは、1918年7月のこと。スコットは二十二歳、ゼルダは十七歳の時に。
この時のスコットの服装は、ブルックス・ブラザーズ製の軍服でありました。スコットはまだ「プリンストン大学」に籍はありながら、志願していたので。
一方のゼルダは、アラバマ州、最高判事の娘。輝くばかりの美貌の持ち主だったという。
出兵先のカントリー・クラブでダンス・パーティーがあって。その後で、ゼルダが男たちに囲まれているのを見たのが、スコットだったのです。
スコットは男たちをかき分けて、ゼルダに近づいて、自己紹介。
「私はスコット・フィッツジェラルドです。今、小説を書いています。そのうちに有名になる男です。」
これが自己紹介の言葉だったと、伝えられています。その後、いくつかの紆余曲折があったものの。
1920年4月3日。スコットとゼルダはニュウヨークで結婚しています。
当時すでにゼルダは、典型的なフラッパーでありました。
「フラッパー」flapper は、1920年代の「お転婆娘」。時代の最先端をゆく無軌道な女性のこと。
一節に、靴のバックルをわざと留めないで、ぱたぱた音を立てて歩いたから、「フラッパー」の言葉が生まれたとも。
「フラッパーとはとくに幸運な呼び名というわけではない。この名称を聞くと、広がったオーバシューズやおおい隠された耳、それに名前以外は見過ごされてしまうかもしれないフラッパーの有名な所持品すべてが思い起こされる。」
ゼルダ・フィッツジェラルドは、『フラッパーはどうなったか?』と題する短篇の中に、そのように書いています。1925年の発表。
とにかく「フラッパー」が、1920年頃から用いられていたのは、間違いないでしょう。
事実、スコット・フィッツジェラルドは1920年に、『フラッパーと哲学者』の短篇を発表しています。
フィッツジェラルドが出てくる小説に、『くれないの旗』があります。テネシー・ウイリアムズが、1944年に発表した短篇。
「先生のミス・フィッツジェラルドは憤激して、彼を壇上から引きずりおろし、ひっぱたいた。」
これはミシシッピー州グレネイダの、高校でのダンス・パーティーでのこと。生徒があまりに楽器を乱暴な扱ったので。
テネシー・ウィリアムズが1972年に発表した小説に、『グリーン市のミス・コイント』があります。この中に。
「それで、指の関節がちょうどころあいの高さまであがって、彼のズボンのフライをかすった。」
これはミス・コイントが、急に身体をひねったので。
「フライ」fly
は、ズボンの前開きのこと。たいていは、ボタンかファスナーで開け閉じするようになっています。これをそれぞれ、「ボタン・フライ」とか、❮「ジップ・フライ」と呼ぶのですが。
チェスターフィールド・コートの前開きは、まず例外なく、「フライ・フロント」になっています。いわゆる「比翼仕立て」のことです。
どなたかフライ・フロントの美しいチェスターフィールド・コートを仕立てて頂けませんでしょうか。