クロワッサンは、朝の食事などによく食べますよね。
はらはらぱらぱら粉雪のように欠片の落ちるパンですあります。
ひと口にパンと言ってもいろんなのがありますが。その中でのクロワッサンは、伯爵夫人のようにお偉いのです。もうそのままでも、なあんにも添えないで食べられるものですから。
あらかじめバターが練り込んであって。バターが練り込んである。その意味ではミルフィーユにも似ているのでしょうか。
日本の文士ではじめて日本でクロワッサンを召し上がったのは、永井荷風かも知れませんよ。
「九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残の
疑雨集をよむ。」
永井荷風の『断腸亭日記』、大正八年一月一日のところに、そのように出ています。
「シヨコラ」は、ココアのこと。「クロワサン」は、クロワッサンのことかと思われるのですが。
大正八年は西暦の1919年のことですから、クロワッサンは今ほど一般的ではなかったでしょう。
その頃、銀座にアメリカ人が経営している「ヴィエンナ・カフェ」というのがあって。ここでクロワッサンを買うことができたんだそうですね。
荷風は、「尾張町」と書いていますが。今の銀座四丁目のことなのであります。
永井荷風の『断腸亭日記』には。フランスでは朝、寝床のなかで、ショコラとクロワッサンを食べるものだ。そんなふうにも書いています。
つまり荷風は寝床でのクロワッサンを、フランスで覚えてきたのでしょう。
クロワッサンが出てくる小説に、『榎本武揚』があります。2013年に、ロシアの作家、
ヴァチェスラフ・カリキンスキイが発表した物語。
「クロワサンを一人二個ずつ食べ切り ー たしかにきわめて艶があって美味そうだった ー 大きなカップに入ったクリーム入りのコーヒーをやっとのことで飲み干した。」
これは、榎本武揚一行がロシアに入る前に、巴里に立ち寄っている場面。榎本武揚らは、
巴里で服装なども整えているらしいのですが。
「パリでは大変有名なクチュールでございますよ! ええ、パリの洒落者は皆ウォルトで服を誂えます。」
榎本武揚がロシアに派遣されたのは、1874年のことですから、その時代の「ウォルト」は、紳士服も扱っていたのでしょうね。
シャルル・フレデリック・ウォルトはもともと英國人で、巴里で成功したクチュリエだったのです。
どなたかウォルトに勝るとも劣らないクチュリエを紹介して頂けませんでしょうか。