ベルリンとヘリンボーン

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ベルリンは、ドイツの都ですよね。
ベルリンとおしゃれ語ともまったくの無関係でもありません。
たとえば、「ベルリン・ブルウ」という色があります。紺青色のこと。「プルシャン・ブルウ」の呼び方もあるんだそうですが。
1704年に、J・K・ディッペルがベルリンで発明した色なので、「ベルリン・ブルウ」。
明治四十年にベルリンに旅したお方に、新村 出がいます。新村 出は、『広辞苑』の著者として、よく識られている国語学者ですね。
新村 出の紀行文に、『伯林冬籠抄』があります。新村 出はなぜかベルリンで俳句を作っているですが。

リンデンを 芝居帰りの 頭巾かな

この「リンデン」が、ウンター・デル・リンデンであるのは言うまでもないでしょう。ここには王立歌劇場があって。その帰り道、美女と前になり後になり。その美人が頭巾をかぶっていた。ざっとそんな情景なのでしょうか。
大正十一年に、ドイツに留学したのが、斎藤茂吉。斎藤茂吉には、『カフエ・ミネルワ』の随筆があります。

「大正十三年のはじめに、ふとカフエ・ミネルワの事を想起して、この喫茶店を訪ねて見ようとおもつた。」

そんなふうに書いてあります。斎藤茂吉が尊敬する、
森 鷗外の小説『うたかたの記』に出てくるカフェ、「カフエ・ミネルワ」のことですね。
斎藤茂吉は「カフエ・ミネルワ」を探しに探して、結局は見つけることができなくて。「カフエ・ミネルワ」はとうの昔に店を閉めていたので。

武者小路実篤には、『ベルリンにて』の紀行文があります。これは昭和十一年にベルリンを旅した時の想い出として。
武者小路実篤はそれまでの日本では、着物。洋服を着る習慣はなくて。一度、志賀直哉に洋服を薦められたけれど、仕立てることはなかった、と。

「しかし今度は、西洋見物を志したのでやむ得ず洋服をつくつた。」

そんなふうに『ベルリンにて』に書いてあります。
洋服を着るということは、ネクタイを結ぶことでもあって。ある編集者にネクタイの結び方を教わる。また、友人も教えてくれる。でも、そのふたりの教え方が違っていたので、困った。そんな話も出てくるのですが。
武者小路実篤の『ベルリンにて』の結びは、こんな文章になっています。

「美の国として世界から仰ぎ見られ、憧憬される国にしたいと思ふ。」

ベルリンが出てくる随筆に、『バルカンの星の下に』があります。五木寛之の紀行文集。この『バルカンの星の下に』を読むと、五木寛之がいろんな時に、いろんな国に旅していることがよく分かります。

「そして今度はベルリンです、まずサベナ航空でブラッセルまで飛び、そこで乗りかえて西ベルリンへ。東へはタクシーで国境を越えるというのです。」

1986年の三月に、五木寛之はそのように書いています。
また、1996年には、チェコスロヴァキアにも。

「ヨアヒムは、恐らくそれが精一杯のお洒落なのだろう。三つ揃いのヘリンボーンの背広に、ブルーのドレス・シャツを着、ゼブラの背中のようなネクタイを締めている。」

これはチェコスロヴァキアで会った男、ヨアヒムの着こなしについて。
「ヘリンボーン」herringbone は、「にしんの骨」。日本でいう「杉綾模様」のことです。
英語としての「ヘリンボーン」は、1787年の頃から用いられているとのこと。もちろん、古典柄のひとつです。
どなたかヘリンボーンのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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