ダンスは、踊りのことですよね。舞踏のことであります。ダンス・パーティーだとか、ダンス・ホールの言葉があるのは、ご存じの通り。
また、回文にもよく使われます。「ダンスがすんだ」。上から読んでも下から読んでも、「ダンスがすんだ」になりますからね。
ダンスから想い浮かべる人物に、イサドラ・ダンカンがいます。「美の女神」と謳われたダンサー。今のモダン・ダンスの創始者とも言われている伝説のダンサー。
1920年代の巴里で絶大の人気を誇ったお方です。
イサドラ・ダンカンは1877年5月26日、サンフランシスコに生まれています。お母さんのメアリは、音楽教師だったと伝えられています。
イサドラ・ダンカンには、三つ上に、レイモンド・ダンカンがいました。お兄さん。このレイモンド・ダンカンの影響も少なくはないようですね。
1900年に、イサドラ・ダンカンは巴里でデヴュウ。この時の衣裳は古代ギリシア風のドレスに素足だったという。
この古代ギリシアへの興味は、兄のレイモンドから受けたものだったと考えられています。
1910年代のレイモンド・ダンカンは、巴里で「古代ギリシアに還ろう」という運動を行っていて、これに賛同したひとりが、川島理一郎だったのです。川島理一郎は、藤田嗣治の親友で、洋画家。一時期、藤田嗣治も川島理一郎に誘われて、ギリシア風俗に染まったことがあります。
藤田嗣治とイサドラ・ダンカンの意外な関係とでも言えばいいのでしょうか。
意外な関係と言えば、英国の作家、バーナード・ショオ。
ある時、イサドラ・ダンカンは、バーナード・ショオに向かって言った。
「私の美貌とあなたの文才とがひとつになったら、どんなに素晴らしいことでしょう。」
これに対するショオの答え。
「私の容貌とあなたの文才とがひとつになっても困りますから」
1903年に、イサドラ・ダンカンは実際にギリシアを訪れています。その時の印象として。
「私のダンスの理想は、私の身体を自由にして太陽の光にさらし、私のサンダルをはいた足が大地を踏みしめているのを感じ、ギリシアのオリーヴの樹のそばに近寄り、それを愛することです。」
そのように語っています。
1927年9月14日。イサドラ・ダンカン、死去。ニースでの交通事故だったのですが。
ダンスが出てくる小説に、『陽のあたる坂道』があります。昭和三十一年に、石坂洋二郎が発表した物語。
「玉吉はダンスを途中でやめて、雪子を抱えるようにして、テーブルにもどった。」
また、『陽のあたる坂道』には、こんな描写も出てきます。
「カーキ色のダッフルコートを着て首にえんじ色のマフラーを巻きつけている、肩幅のひろい青年こそ、田代信次だったのである。」
この『陽のあたる坂道』には、何度も「ダッフルコート」が出てくるのですが。
後に『陽のあたる坂道』が日活で映画化された時、田代信次を演じたのが、石原裕次郎だったのですね。
「ダッフル」duffle はもともと、頑丈なウール生地の名前。ベルギーの、アントワープに近い「デューフェル」の村ではじまったので、その名前があります。
生地の名前としての「ダッフル」は、1684年の頃から用いられているそうです。
どなたか、厚手のダッフル・コートを仕立てて頂けませんでしょうか。