フロベエルとプワ

フロベエルは、フランスの文豪ですよね。もちろん、
ギュスターヴ・フロベエルのことであります。
フロベエルは1821年3月12日、ルーアンに生まれているのですが。
お父さんは、アシル。お母さんは、アンヌだったと伝えられています。
お父さんのアシルは外科医だったそうですね。
若い頃のギュスターヴは、法律の勉強を。やがて文学に目覚めたとのことです。
1857年、フロベエルが三十五歳の時に発表した『バヴァリー夫人』は、代表作と言って良いでしょう。
また、誰もが読むフランス小説のひとつですね。
フランスの文藝評論家のジェヌヴィエーヴ・ボレームは、『ボヴァリー夫人』についてこんなふうに言っています。1964年の『ボヴァリー夫人論』の中で。

「フローベールの作品のなかで「ボヴァリー夫人」に匹敵するものはなく、他のいかなる作品も最大限のイマージュを駆使して最小限の事件を語るその技法において、これほど完璧の域に達したものはないようにわれわれには思われた。」

これはひとりジュヌヴィエーヴ女史のみならず、たいていの作家が認めざるを得ないところでしょう。
1857年に『ボヴァリー夫人』が発表された時。モデルは誰なのか。問題になったという。
それである人がフロベエルに訊ねた。
「ボヴァリー夫人」のモデルは誰ですか? これに対するフロベエルのひと言。

「ボヴァリー夫人は、私だ。」

もちろんボヴァリー夫人のモデルはあったのですが。細部にわたって書き込んだのは、フロベエル自身だったのでしょう。
もしフロベエルをひと口で説明するなら。「モオパッサンの先生」でしょうか。
若い頃のモオパッサンは毎日曜日、巴里からクロワッセのフロベエルの自宅に通っています。文章の勉強のために。
モオパッサンをモオパッサンに育てたのが、フロベエルだったのは、間違いないでしょう。

「フロベエルはなによりもまず、藝術家だった。」

モオパッサンは1880年に発表した『ギュスターヴ・フロベエル』の中に、そのように書いてあります。
一行の文章を書くのにフロベエルがいかに苦心を重ねたか、と。
当時のフロベエルはルーアン郊外のクロワッセの邸宅で暮していました。
それはセエヌ川に沿った、緑の深い邸宅で。二階書斎からはセエヌを行き来する船の様子を眺めることができて。フロベエルはこの川船を観るのが、お好きだったらしい。
フロベエルは毎朝九時に仕事をはじめて。昼食まで。昼食の後、少し昼寝。昼寝の後、また机に戻ったとのこと。

「明日、月曜日はマニー亭の日です。大切な先生、もちろん、私は行きます。今からその時まで、心をこめて。」

フロベエルは1886年のある日曜日、ジョルジュ・サンドに宛てて、そんな手紙を送っています。
ここでの「マニー亭」は、当時、巴里のマゼ街にあったレストランの名前。
ここで文壇人の集まりがあったので。この「マニー亭」での食事会は、1862年から続いていたとのことです。ここでの会には、ゴンクール兄弟も顔を出していたそうですね。
『ゴンクールの日記』を読んでおりますと。

「ピンク色の水玉模様のネクタイをして驚天動地の服を一着に及んでいた。」

1868年6月1日の『日記』に、そのように出ています。
これも「マニー亭」での食事の様子。あるピアニストが水玉模様のネクタイを結んでいたので。
水玉模様。フランスなら「プワ」pois でしょうか。
もともとは「エンドウ豆.」の意味だったそうですね。
どなた紺色のプワのネクタイを作って頂けませんでしょうか。