清涼美
クレープは縮 ( ちじみ ) のことである。生地の表面に美しい、縦の縮があらわれるので、「縮」の名で呼ばれる。縮布は省略して、「縮」なのであろう。
「縮」についての説明は、江戸期の百科事典ともいうべき『和漢三才図会』にも出ているから、かなり古い時代から知られていたものと思われる。
クレープはまた、楊柳 (ようりゅう ) とも。楊柳とは柳のことであって、生地の表面が柳の葉に思えるところからの名称なのであろう。
やや厚手のクレープを時に「クレポン」 crepon と呼ぶことがある。これを一列として、クレープの種類は少なくない。よく知られているものを挙げてみても、「クレープ・ド・シーヌ」や「クレープ・ジョーゼット」がある。
クレープ・ド・シーヌを略して、「デシン」、クレープ・ジョーゼットを略して、「ジョーゼット」と呼ぶわけだ。
クレープ・ド・シーヌの名前があるからではないが、そもそものクレープは古い時代の中国にはじまったものであろう。中国での生地がフランスに伝えられて、その地で「クレープ」として完成されたものである。
今日のクレープはフランスが故郷だと考えて良い。フランス語であるから、crepe は最初のeにはアクサンティギュが添えられるのであるが。
イギリスのクレープもフランスから伝えられたものだが、ふつう crape と綴ることが多い。イギリスでの「クレープ」には「喪章」の意味もある。喪章にはクレープが使われたからであろう。
英国にクレープが齎されたのは、十五世紀のことかと考えられる。
一方、日本には1590年ころに渡来したという。中国、明の織工が大阪、堺にやって来て、クレープの織り方を教えたという。
「我國の縮緬と同じような織方をした織物で、即ち織物の縦絲または経・縦兩方に強い撚りをかけた絲で織り、表面に細かい「しぼ」を表した織物をいふ。(中略 ) 手觸りがさらさらして肌につかないので、夏の着尺地・下着地等に用ひられる。」
三省堂編『婦人家庭百科事典』にはそのように説明されている。「クレープ」は少なくとも、昭和十年代から使われていたことが解るだろう。
一般にクレープといえば、コットン・クレープを想起するのだが、シルク・クレープももちろんあるわけで、それが限りなく縮緬に似ているのも、当然のことであろう。
「クレープのチュニック」
英国の作家、ジョン・ダンが1633年に書いた書の中の一節である。これは英語としての「クレープ」の比較的はやい例であろうと考えられているものだ。
事実、中世のヨーロッパではクレープ地によるチュニックは珍しくはなかったようである。ただしそれは、シルク・ウールによるクレープであったらしい。縦にシルク、経にウーステッドを使ってのクレープであった、と。
「シルクのストライプによるノリッジ製のクレープ地は一枚、ストライプではない、ノリッジ製のシルク・クレープが二枚……」
1685年『ロンドン・ガゼット』紙の記事の一節。1685年ころの英国に、シルク・クレープがあったのだろう。そしてそれは、ノリッジ製であった、と。ノリッジはイングランド東部、ノーフォーク州の州都である。当時はノリッジで、シルク・クレープが織られていたのだろうか。
「濡れた紺の詰襟の上衣を脱いで、クレップシャツ一枚になり……」
江戸川乱歩著『夢遊病者の死』 ( 大正十四年刊 ) の一文。外は雨、父が自宅に帰った時の様子。「クレップシャツ」は、クレープ地の下着なのであろう。それはともかく大正時代すでにクレープが使われていたものと思われる。私の子供のころにも、クレープのシャツはよく着せられたものである。ただし「縮」と呼んでいた記憶があるのだが。
「クレップのシャツ一つで、玉子色の塩瀬裏や壁羽二重の燃えるような鮮やかな花模様のあずまをこつこつと縫っているのが……」
林芙美子著『牡蠣』 (昭和十年刊 ) に、そのような文章が出てくる。これは周吉という職人の姿。ここでの『あずま」とは、小物を入れるための、小袋のことであるという。それはともかく、ここでも「クレップ」になっている。当時は「クレップ」の言い方が珍しくはなかったのかも知れない。
「燃えたつやうなクレープ・ド・シーンの緋色の服を纏つたキャザリンを膝の上に載せてゐた。」
谷崎潤一郎著『友田と松永の話』 ( 大正十五年刊 ) に出てくる一節。時は夏、所は横浜のクラブ。語り手の友人である、友田という人物の様子。
語り手はおそらく谷崎潤一郎だと考えて良いだろう。この時の谷崎潤一郎の下着は、コットン・クレープであったのかも知れないが。