花の貴公子
ラヴェンダーは花の名前であり、香りの名前であり、色の名前である。
「トゥルーラベンダーは地中海からアルプス地方に原産する多年草で、草丈は約1mになり、夏にライラック色の花長い花梗に6~10花ずつ輪状につけ全体として穂のようになる。」
『世界大百科事典』は、そのように説明されている。ここでの「トゥルーラベンダー」こそ、ラヴェンダーそのものなのである。
ラヴェンダーはシソ科ラヴァンドラ属の植物。原産地はアルプスであるという。そのために、寒冷地を好む。日本では北海道のラヴェンダー畑が有名なのもそのためである。また高地であればあるほど、ラヴェンダーの芳香も高められる。
ラヴェンダーはフランスで、「ラヴァンド」 lavande、イタリアで、「ラヴァンドラ」 lavandraの名前がある。学術名は、「ラヴァンドラ・アングスティフォリア」。これはラテン語の「ラヴァンドレ」 lavandore と関係があるらしい。古代ローマ人は洗濯の仕上げ剤に、ラヴェンダーを使ったからとか。「ラヴァンドレ」は、「洗う」の意味であるから。
ラヴェンダーには防虫効果があることが知られている。ラヴェンダーのポプリを洋服箪笥に入れて置いたりするのはそのためである。また、ラヴェンダーには安眠効果がある。ラヴェンダー入りの枕があるのはそのためである。そしてまた、ラヴェンダーには精神安定の働きもあるという。
英語で「ライ・アップ・イン・ラヴェンダー」 lie up in lavender といえば「大切に保管されている」の意味になる。それはおそらく洋服箪笥に吊るしたラヴェンダーから来ているのであろう。
ラヴェンダー畑を歩くとただそれだけで芳香に包まれてしまう。香りの強い花なのである。古来その香りの精分が広く利用されてきたのは、言うまでもない。
香りの精分が何千、何万とある中で、ラヴェンダーはことに男性に身近かな香りなのだ。男性用オーデコロンでラヴェンダー精分をまったく含まないものは珍しい。男性化粧品にも多くラヴェンダーが利用されるのだ。
「ラベンダーは独特な香りがさわやかで甘いナチュラルな印象の調香に加える。意外に思うかも知れないが、クロイドン ( グレーターロンドン南部の都市 ) で商業用に栽培された世界で最高品質といわれる精油はミッチャム ( イングランド南部サリー州の旧市 ) で採れていた。」
ロジャ・ダブ著 新間美也訳 『香水の歴史』には、そのように出ている。ラヴェンダーもまた、南仏、グラースなどを想起するのだが、かつては英国でも上質のラヴェンダーが栽培されていたのであろう。それはともかく、全体の香りを自然に調和させるにも、ラヴェンダーは役立ってくれるようである。
「庭に咲いているのはいくらかのエニシダとラベンダーだけ。仕事部屋は大きなガラス窓のあるサロンで夏には笠松の枝から漏れる日の光がたっぷりと差し込む。」
ジャンクロード・エリナ著 芳野まい訳 『香水』の冒頭に、そのように出ている。著者は、フランス人、調香師。その自宅の様子なのだ。「野生のラベンダー」とあるから、そこは寒冷地なのであろうか。標高が高いのかも知れない。それはともかく調和師としても、理想的な環境であることが分かる。
ラヴェンダーは人の目に美しく、香りを愛で、心を寛がせる。さらには、食用にも。英国王、エリザベス一世はラヴェンダーのジャムを好んだと伝えられている。ラヴェンダーは植物であってみれば、当然、口に入れることもできるわけだ。
「西洋流のレターペーパーを使ひつけた彼は、机の抽斗からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して……」
夏目漱石著『明暗』 ( 大正五年発表) の一文。漱石は「エ」に濁点で、「ヴ」の字を書いているのだが。
もしかすれば漱石もラヴェンダー色のレターセットを持っていたのかも知れない。ラヴェンダー色はイメージ喚起力が強い。その色を見ているだけで、空想の中にラヴェンダーの香りが拡がってくるのだ。
「ラヴェンダー香水を滲ませたハンケチが彼の鼻孔に触れた、すると彼は、金色に、薔薇色に、透き通った青色に冴えて……」
コレット著 堀口大學訳 『青い麦』 ( 1923年刊 ) の一節。「彼」とは、十六歳のフィリップのこと。「ラヴェンダー香水を滲ませたハンケチ」は、フィリップの母のもの。
ラヴェンダーの香りが人の心を明るくするのは間違いないようである。