トレヴァーは、人の名前にもありますよね。私が今、すぐに想い浮かべるトレヴァーに、ウイリアム・トレヴァーがいます。
Trevor と書いて「トレヴァー」と訓むのですが。
ウイリアム・トレヴァーはアイルランド生まれの作家。
1928年5月24日に、アイルランドのコークに於いて、誕生。『聖母の贈り物』は、代表作でしょうか。2007年には、「オー・ヘンリー賞」をも受けています。
ウイリアム・トレヴァーが2000年に発表した短篇に、『哀悼』があります。この中に。
「自分の部屋でパンにバターを塗り、バターの上に砂糖を振りかけ、煮豆とスープの缶詰を開けて、冷たい中身をもそもそ食べた。」
これはフィニーという男の様子として。「バターの上に砂糖」。美味しいのでしょうか。
スープの出てくる日記に、『古川ロッパ昭和日記』があります。言うまでもなく喜劇俳優、古川ロッパの日記。
昭和九年一月一日から、昭和三十五年十二月二十五日までの二十六年間、毎日、克明に続けられたものなので、『古川ロッパ昭和日記·』。
ことに戦前戦後の風俗を識る上でも貴重な資料とも言えるでしょう。
「ポタージュとシュニッツエル、他にポテトハッシュと、スチュウコーン。」
昭和十六年一月五日、月曜日の『日記』に、そのように書いてあります。これはあるホテルの食堂でのこととして。戦争中なので、すでに食料に不足があったので。
「第一食堂でロシヤシチュウを食ひ、又ニットー紅茶でランチを食べて座に出る。」
昭和十六年一月十三日、月曜日の『日記』。なんだかランチを二回召しあがっている印象なのですが。たぶん一軒では足りなかったのでしょう。
「大庭の案内で何とかいふコーヒー店へ入り、コーヒーをのむ、本場ものでうまかった。」
昭和十六年一月二十二日、水曜日の『日記』。
この頃、本物のコーヒーが手に入りにくくなっていたので。代用コーヒーも少なくなかったのでしょう。
「此の時世に、フンダンな材料が先づよく、子持ハゼの天ぷらなんてものは、初めてだった。佐藤社長の車が来て、サンボアへ、ウイ本もの大に飲み、又南へ出て、結局新町吉田屋へ。」
昭和十六年二月二十七日、木曜日の『日記』。
これは大阪での夕食として。ある贔屓からの御馳走で、天ぷらを食べた話になっています。
ここでの「ウイ」は、ロッパ語。もちろんウイスキイのことです。また、「本もの」とは、純粋ウイスキイ。この時代には、本物ではないウイスキイもあったものと思われます。
「純綿シャツ、下着を買ふ。ツータル一本。トアロードへ歩く。元町へ戻つて又阪急迄歩く歩く、足が痛いほど。」
昭和十六年三月三日、月曜日の『日記』。これは神戸での買い物の様子。「ツータル」は当時あった英国のネクタイのこと。古川ロッパが洒落者だったことがこれで分かります。
「注文した万年筆ケース出来、届いて来た。山田伸吉から、セーターとウォタマンのインク貰ふ。帰ってすぐ万年筆ケースに並べる。」
昭和十六年四月二十一日、月曜日の『日記』。
ここから想像するに、古川ロッパは『日記』を、万年筆でつけていたのでしょう。それもこの時には、ウォータマンで。時によって、いろんな銘柄の万年筆を遣い分けてもいたらしいのですが。
ここでもう一度、アイルランドの作家、ウィリアム・トレヴァーに戻りましょう。
「マイケル・コリンズのようにトレンチコートを羽織って、マイケル・コリンズのように大股で歩いている自分を想像しようしても、ちっともわくわくしない。」
これは、リアム・パットの想いとして。これもまた、『哀悼』に出てくる一節なのですが。
トレンチ・コオトtrench coat は第一次大戦中、英国陸軍で開発された塹壕専用外套だったものです。
英語としては、1910年頃から用いられています。初期のトレンチ・コオトは、今のようにラグラン肩ではなく、セット・イン肩に仕立てられていたものです。
どなたかセット・イン肩のトレンチ・コオトを仕立てて頂けませんでしょうか。