原で、俳人でといえば、原 石鼎でしょうね。石鼎は俳号。本名は、鼎なんだそうです。もちろん、「せきてい」と訓みます。系列としては、高濱虚子の弟子にあたります。
頂上や 殊に野菊の 吹かれけり
は初期の秀句とされています。石鼎は一時期、放浪生活を経験したこともあって、自然に温かい目を注いだ句を、多く遺しています。
同じ原でも、政治家には、原 敬がいますよね。もちろん、「はら たかし」と訓みます。「平民宰相」と謳われた首相でしたが、その平民に襲われる結果となったのは、皮肉ですが。
原 敬の姪の息子で、後に養子となった人物が、原 圭一郎。原 圭一郎は一時期、服飾評論の筆を執っていた人物。
原 敬は当時としては珍しいフランス通の政治家でもありました。原 敬は、明治十八年に、「巴里公使館」勤務となっていますので。
原 敬と政治上のつきあいがあったのが、後藤新平。後藤新平は、安政四年の生まれ。安政三年生まれの原 敬とは、一つ違いの年だったのですが。
後藤新平は、もと医者で、医者から政治家になった人物。
明治十五年四月、岐阜において板垣退助が暴漢に襲われて。この時、名古屋からかけつけた医師が、後藤新平。後藤新平は、その時に言った。
「閣下、ご本懐でございましょう。」
これを聞いた板垣退助、後に、「後藤を政治家にできないのは、残念でならない」。
結局、後藤新平は政治家になるのですが。後藤新平は理屈をいうのが好きではなかったという。
妄想するよりは活動せよ。
疑惑するよりは活動せよ。
説話するよりは活動せよ。
これが、後藤新平の終生の処世訓だったそうですね。
大正十二年。関東大震災後の、東京市復興にいくらかかるか?と問われた後藤新平。
「十三億円!」。これは当時の国家予算に近かった。そこでついたあだ名が、「後藤の大風呂敷」。でも、今、冷静に考えて、「後藤の前に後藤なく、後藤の後に後藤なく」。後藤新平は、まことに巨きな人物でありました。
後藤新平はまた、日本の初代ボーイスカウト総長でもありました。その頃、「後藤総長弥栄の唄」というのがあって。
♬ ぼくらの好きな総長は
白いおひげに鼻眼鏡
団服つけて杖もって
そうなんです。後藤新平の目印は、鼻眼鏡、パンス・ネでありました。鼻で摘んでかける眼鏡なので、鼻眼鏡、パンス・ネ。
後藤新平にははるか及びませんが、せめて鼻眼鏡をと思ったりするのですが。