皇太子は、王位継承権を持つ皇子のことですよね。
英語では、「クラウン・プリンス」でしょうか。王子は、プリンス。プリンスの中でもやがて王位に就くことが考えられているお方のことを、「クラウン・プリンス」と呼ぶのですね。
ところが、イギリスの限っては皇太子のことを、「プリンス・オブ・ウエールズ」と称する習慣があります。
「イギリス皇太子は、ウエールズ皇太子」そんなふうににも解釈できるのかも知れませんが。
エドワード一世の時代、今のウエールズ地方はまだ平定されていませんでした。が、1283年になって、平定。でも、実はまだ、エドワード一世に従いたくはない人たちもいたのです。
そんな時代に。ウエールズの「カーナボーン城」で、王子が誕生。1284年のことであります。
エドワード一世は王子を抱いて、カーナボーン城のテラスに立って。
「これぞ、プリンス・オブ・ウエールズなるぞ!」
と宣言。これによって、ウエールズの一部の不満も矛を収めたと伝えられています。
世界中で英国だけが皇太子を、「プリンス・オブ・ウエールズ」と呼ぶ背景には、ざっと1,000年の歴史が隠されているのでしょう。
「いま、宮は、大勢の同じ價格を拂つて同じ物を飲んでいる客の中にいた。宮は客でしかなかつた。」
昭和三十一年に、藤島泰輔が発表した『孤獨の人』の一節に、そのように書かれています。
文中、「宮」とあるのは、当時の皇太子殿下。また『孤獨の人』も、皇太子殿下を指していること、いうまでもないでしょう。
藤島泰輔は若き日に、皇太子殿下と「学習院」で同級生だった人物。また後に、メリー喜多川と結婚したお方でもあるのですが。
『孤獨の人』はその題からも窺えるように、皇太子殿下を描いた小説なのです。
その時代の皇太子があまりにも自由のないお暮しなので、二三の学友が、お忍びで電車に乗って、銀座に行く場面が描かれています。
ここでの皇太子殿下が今日の「上皇」であらせられるのは、いうまでもないでしょう。
「上皇」は、皇太子時代の昭和二十八年三月から十月まで、外遊なさっています。
ロンドンでは当時、イギリス首相であったウインストン・チャーチルが皇太子を、
昼餐会に招いています。この時、チャーチルはモーニング・コートに、蝶ネクタイを結んでいたという。
昼餐会で魚料理が出て。「お飲み物は?」と訊かれた皇太子。「赤ワインを」。チャーチルはすぐに命じて、ふさわしい赤ワインを用意させたそうですね。
昭和二十八年。皇太子がロンドンで買ったものに、シルク・ハットがあります。シルク・ハットを註文するときにはたいてい頭の寸法を測る。この特別の道具のことを、
「コンフォルメイター」 c onf orm at or と言います。それは細い、黒い鉄の管でできた、トップ・ハットに似た形の測定器。
このコンフォルメイターを頭に乗せて鏡を見た皇太子に、笑顔が。これにつられて側近たちも皆笑ったそうですね。
大正十年に英国などをご訪問されたのが、日本国皇太子。後の昭和天皇であります。
大正十年三月三日、木曜日。午前十一時三十分。横濱を「香取」で出航。随艦は、「鹿島」。
でも、それとは別に、「クライト号」の存在がありました。「クライト号」は、大正十年五月一日。静かに神戸港を解らん。「香取」、「鹿島」の先導船として。それぞれの寄港地には、「クライト号」が先着していたのです。
「同駅においては、フロックコート、シルクハット姿の英国皇帝、皇太子エドワード親王、
ヨーク公及びアレクサンドラ皇太后……………………。」
『昭和天皇実録』には、そのように出ています。大正十年五月二十九日、日曜日のところに。
ここに「皇太子エドワード親王」とあるのは、後のウインザー公爵に外なりません。
「同駅」は、ヴィクトリア・ステイション。日本の皇太子一行は、これからオルダーショットに向うところ。
その少し前。裕仁皇太子は、バッキンガム宮殿で、洋服、靴、帽子を誂えています。それぞれ三人の名工が招かれたことはいうまでもないでしょう。
大正十年五月にも、裕仁皇太子はシルク・ハットを註文しています。当然のように、
コンフォルメイターで、測る。
裕仁皇太子は鏡に向って、お笑いに。それはやがて笑いの渦となって、時ならぬ大爆笑になったと、伝えられています。
コンフォルメイターは、細いパイプの集合体で、このパイプを移動させることによって、正確な頭の「形」を測ることができるようになっています。
どなたかコンフォルメイターで測ったかのようなボウラーを作って頂けませんでしょうか。