魔法壜と繭

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魔法壜は、サーモのことですよね。Th erm os と書いて「サーモ」と訓みます。
ほんとうは「サーモス」なのですが、一般の日常会話では「サーモ」とも。
魔法壜の原理は、スコットランドの科学者、ジェイムズ・デュワーが考案したという。1892年に。
真空のガラス器に入れておけば、温度は変化しにくいことに気づいたのです。でも、
デュワーはあえて特許を得ようとはしなかったという。
「サーモス」の名前は、ギリシア語の「熱」、「セルメ」から。1904年のことです。
魔法壜が日本に伝えられたのは、明治四十二年のことだとか。でも、あまりに高価なのですぐには一般には広がらないかったそうですが。

「大な獲もの袋と、小革鞄と一所に、片手摑みに引下したのは革紐の魔法壜。」

大正三年に、泉 鏡花が書いた『魔法壜』の一節。魔法壜が出てくる小説としてはわりあい早い例かと思われます。

「どこへ出かけるにも、おせいは私の藥を飲むための用意の魔法壜を肩にさげさせられた。」

葛西善蔵が、大正十一年に発表した『おせい』にも、そのように出ています。
魔法壜なのか、魔法瓶なのか。少なくとも大正期までは、「魔法壜」の表記が多かったようですね。

「魔法壜の外側のつやつやとしてゐるのが凸面鏡の作用をなして、明るい室内にあるものが、微細な物まで玲瓏と影を落しているのであるが……………。」

谷崎潤一郎著『細雪』にも、「魔法壜」が出てきます。

「……………此の部屋が廣大な宮殿みたいに……………。」

「幸子」の科白として。魔法壜の面に写る部屋の面白さを喜んでいる場面。魔法壜にもいろんな使い方があるのでしょう。

「私は魔法壜というものを見たのはこの時が初めてで、母から触ってはいけないと言われたので、決して触らなかった。」
井上 靖が、昭和四十二年に発表した『魔法壜』の一節。時代背景は、大正のはじめ頃かと思われるのですが。
魔法壜にどうして触ってはいけないのか。壊れるから。
当時の魔法壜の内側は真空のガラスで。落とすとすぐに割れたのです。今は、金属製なので、落としても割れことはありませんが。
井上 靖が、昭和四十八年に発表した文章に、『幼き日のこと』があります。この中に。

「郷里の山村では、どこの家に行っても蚕棚があり、私たちは幼い頃から繭や蛹には馴れっこであった。

そのように綴っています。
井上 靖は明治四十年に、北海道の旭川に生まれています。明治期の旭川でも蚕が飼われていたことが窺えるに違いありません。
井上 靖は単に、「蚕」と書いています。が、実際には「お蚕」と呼んだものです。それは貴重な、不思議な生き物であったから。また、上手に育てたなら、現金収入にも結びついたのですから。

「繭売の車がぞろぞろ通った。」

田山花袋が、明治四十二年に発表した『田舎教師』にも、そんな一節が出てきます。
繭からはやがて絹糸が生まれるわけですから、売れるのも当然でしょう。
蚕もまた動物ですから、個体差があります。大きい蚕もあれば小さい蚕もあります。当然ではありますが、小さい蚕の吐く糸はより細いのです。つまりはより細い絹糸となるのであります。
大きい蚕にせよ小さい蚕にせよ、「家蚕」と言います。家の中で育てた蚕ですから。
これに対して、「野蚕」もあるのです。
家蚕がムラのない絹糸になるのに対して、野蚕はややムラのある絹糸に。このムラのある絹糸を愛でる通人もいたりするわけですが。
たとえば、「シャンタン」。あれも昔は野蚕だったからこその節糸であり、味わいだったのですね。
どなたか絹のスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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